日が沈んでいく。
水平線に隠れ、半分だけ顔を出している太陽が海を照らしている。




しばらく座って待っていると、早川先生が紅茶を2本持って戻ってきた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

温かい紅茶。その温もりに触れていると、気持ちが落ち着いてくる。

早川先生も隣に座った。
私に触れるか触れないか、そんな距離感で。



「少し、昔話をしても宜しいですか?」
「…はい」

紅茶の蓋を見つめながら、早川先生の声を聞く。
先生は、言葉を選ぶようにポツリポツリと言葉を発した。


「僕、大学生の頃に初めての彼女ができました。同級生です。…藤原さんに言うのも変ですが、当時は大好きでした。彼女の事。でも、僕には教師になる夢があり…どうしても彼女よりも勉強が優先になっていました」

早川先生は海の方を見ているが、その目に見えているのは海ではなく初めての彼女との思い出なのだろう…。


初めて見る早川先生の表情に、少し胸がざわつく。


「当然、デートに行くこともありませんし、今みたいに2人でゆっくり話すなんてこともありませんでした。そのうち、見てしまったのですよね。彼女が他の男性と浮気をしていたところを。僕は彼女を(とが)めました。僕とお付き合いしていながら、他の人と浮気するなんてどういうことだ…と。けれど、そんなの的外れですよね。だって、僕が彼女を放置していたのですから」


今の早川先生からは想像もできない話。今とは正反対だ…。
私は相槌(あいづち)も打たず、無言で話を聞いた。時々、貰った紅茶に口をつける。


「彼女は怒って言いました。『私の事、興味も関心も無いよね。貴方が私を見向きもしないから、他の人のところに行った。それだけのことよ』と。その後、彼女は浮気相手と結婚しました。…だから僕、それから恋愛なんてしないと決めていたのです。僕には向いていないのだと。…そう思っていたのに。僕は藤原さんのことを好きになってしまいました。相手は生徒だから駄目だと分かっているのに、感情を抑えられない哀れな自分。僕は自分に何度も言い聞かせました。それでも、やっぱり好きで感情が抑えられませんでした。今思えば、大人気(おとなげ)ないです。……そして、そんな僕を藤原さんが受け入れてくれたこと。本当に嬉しくて…。だから、その時に決めたのです。僕はもう同じ(あやま)ちを繰り返さない。僕は、もう二度と大切な人を悲しませないと。……ただ、その結果が束縛みたいになっていたのでしたら、謝罪しなければなりませんが…」


そう言って、早川先生はやっと私の方を見た。目には涙が浮かんでいる。

「だから、伊東先生と神崎くんの存在が不安なのです。僕は、また彼女を奪われてしまうのでは無いかと…。2人とも、藤原さんに好意を伝えています。僕がいるのに、僕が彼氏なのに…。僕は教師だから。伊東先生はさておき、神崎くんには僕が彼氏だと伝えられません…」


私は小さく震えている早川先生を、ぎゅっと抱き締めた。




そういうことか。
先生の心の中が見えた気がした。



「先生の事は良く分かりました。でも、ライブについてくるとか…それは少し度が過ぎています。信頼されていないのだと、私は感じます」

早川先生は頷きながらゆっくりと抱き締め返してくれた。

「さっきも言いましたけど、私は神崎くんのこと突き放しました。伊東先生も同様です。伊東先生の事、好きだった時期もありましたが、今はそんな感情一切ありません。何がそんなに心配か分かりませんが、そんな私を早川先生が一番近くで見ているじゃないですか…。私は浮気ではありませんし、元カノさんとは全く状況も違います」
「………そうですね。…ごめんなさい」


元カノさんの件については、勉強を優先させた先生が悪いのでは?


それでは浮気されても仕方ない気もする。


「先生が不安になる理由が分かりました。だだ、覚えておいて下さい。私は裕哉さん以外の人に、興味ありませんから…」


不器用な早川先生の愛。13歳も年上の早川先生に、どうしようもないくらいの愛おしさを感じる。


元カノさんには悪いけど、そんな過去があったからこそ “今の” 早川先生がいるし、その隣に私が居られる。


「裕哉さん、束縛だなんて言ってごめんなさい。だけど、裕哉さんも信じて下さい。私が伊東先生や神崎くんに乗り換えることなんてありません。そんな生温い覚悟で、先生とお付き合いなんてしませんから」

真っ直ぐ先生の目を見つめて力強く言った。




早川先生は静かに泣いていた。
先生の涙、何度見ただろう。




本当、泣き虫なんだから。



「真帆さんは、本当に大人です」
「先生が子供すぎます…」

何度目かのやり取りをする。
涙で濡れている先生の頬を(つつ)くと、泣き顔のまま少しだけ笑った。




先生、過去のことを話してくれて良かった。
少しだけ早川先生と心の距離が近付いた気がした。




 


思ったより公園に長居しすぎて、日は完全に沈み辺りは暗くなっていた。



早川先生はそのまま私の家の前まで送ってくれた。

「先生、本当にまた学校に戻るのですか?」
「はい。学年末テストを作ってきます」
「すみません…私のせいで」
「だから、藤原さんのせいではありません。元を辿れば、全て伊東先生のせいですから」

そう言って、ほんの少しだけ口角を上げた。

「では、急ぐので今日はこれで失礼しますね。藤原さん、また明日です」
「はい、ありがとうございました…」



早川先生の車が見えなくなるまで、外でずっと見送っていた。








その日の夜遅く、寝る準備をしていると早川先生からメッセージが届いた。

『藤原さん、夜分遅くに失礼致します。数学科準備室ですが、伊東先生との間にパーティションを設置しました。僕の席は左側の入口となります。これで安心して、数学科準備室へ来て下さい』



そんな文章に写真も送られてきている。左奥の角に早川先生の机。そしてその隣に生徒机。

手前側にはいつも本が山積みになっているソファとテーブルが置いてある。そして冷蔵庫。全て取ったのね…。

『先生、お疲れ様です。また、補習を受けに行きます』



よし。
明日も、頑張ろう。





伊東のことで辛い思いもしたが、それを早川先生が無くしてくれた。
気持ちが、凄く楽になっていた。