「河合さん、今朝課長から報告されましたよね?沢田さんの退職のこと」

資料を片づけてゆっくりコーヒーを飲み始めた航に、凛はためらいがちに切り出す。

「ああ、俺も驚いた。もっと気にかけてやるべきだった。きっと仕事がうまくいってなかったんだろうな」
「はい。私も最近沢田さんの表情が暗いのに気づいていたんですけど、何も出来なくて。お手伝い出来ることがあったんじゃないかと後悔するばかりです」
「いや、君は気にしなくていい。俺達がちゃんとチームプレーをしなかったのがいけないんだ。俺もずっと外回りばかりでオフィスに寄りつかなかったから、沢田の様子に気づけなかった。先輩として失格だな」
「そんなこと…。営業のお仕事は難しいですよね。何よりもクライアントのことを考えて優先させなければいけないし、この会社は単独で動くやり方だから誰かに頼ったりも出来ないし」

うつむき加減で言葉を選びながら話す凛を、航はじっと見つめる。

(まだ働き始めて数ヶ月、ましてや営業でもないのに、この会社のことをよく分かっている。驚いたな。どうやったらそんなことに気づけるんだ?それに広告についての知識もある。きっと密かに勉強しているに違いない)

子どもだと思っていた凛が、急に自分と対等の仕事仲間に思えてきた。

保護者のように見守ってきたが、いつの間にか仕事のアドバイスをくれる心強い存在になっている。

「河合さんは?お仕事のストレスは大丈夫ですか?」

顔を上げて心配そうに聞いてくる凛に、航は優しく微笑む。

「大丈夫だよ。さっきまで悩んでいた広告の件も、君のおかげで解決したしね。それに毎日美味しい食事を作ってもらってる。体調もいいし、君と話をすると気持ちも癒やされるんだ」
「そうなんですね、良かった」
「営業は、確かに厳しい世界だと思う。向き不向きもあるしね。俺は本当に恵まれているだけなんだ。沢田もきっと、我慢しながらこの仕事を続けて身体を壊すより、自分に合った仕事に移った方が良かったんだと思うよ」
「そうですよね。沢田さん、今はようやく悩みから解放されて、ホッとしてくれていたらいいな」

プレゼントしたマグカップを大事そうに両手で握る凛の優しい表情に、航は思わず見とれていた。

夜の静けさの中、二人の間に流れる時間は穏やかで温かく、航の心を満たしてくれる。
沈黙さえも心地いい。

(この時間がずっと続けばいいのに)

航は心の中でなぜだかそればかりを願っていた。