ぎりぎりと首が締め上げられていく。
 苦痛の隙間で痛烈(つうれつ)な愛情に圧倒されていた。

(そんなに、わたしのこと……?)

 つい気が抜けて、信じて許してしまいそうになる。
 そうしたら彼の想いに飲まれ、あとには何も残らないというのに。

「や、め……て」

 声にならない声で訴えかけながら、その手を剥がそうともがいた。

 こんなところで終われない。
 殺されたくない。死にたくない。

 真実を知らないまま、“お姫様”になれないまま、幕を下ろすなんて嫌だ。

 雪崩のように湧き上がった感情の中には、以前のわたしの切望も混ざっていた。

 以前のわたし、なんて分け方は、本当は間違っているのかもしれない。
 記憶を失う前の自分も確かに自分だ。

 その境界線がぼやけていくことが、わたし自身が統合されていくことが、もしかしたら“すべてを取り戻す”ということなのかもしれなかった。

 わたしは(もだ)えながら必死で腕を伸ばした。

 手探りでテーブルの上に触れ、手繰(たぐ)り寄せるようにリモコンを掴む。
 震える手で思いきり振り下ろした。

「く……っ」

 小さな(うめ)き声がしたかと思うと、ふっと空気が喉を通り抜けていく。

「うっ! けほ、けほ……っ」

 彼の手を抜け出したわたしは激しく咳き込みながらソファーを転がり落ちた。

 顔が熱い。
 脈打つ感覚が(じか)に伝わってくる。

 胸に手を当てて呼吸を整えつつ、涙を滲ませながら愛沢くんを見上げた。

「…………」

 ソファーの上で項垂(うなだ)れるように頭に触れていた彼が、緩慢(かんまん)とした動作でその手を下ろす。

 指先が赤い。
 鮮血がついているのが見て取れた。

「痛……ってぇな」

 いっそう低めた声で呟き、ゆるりと立ち上がる。
 彼の額には血が滲んでいた。

 わたしが抵抗して振り下ろしたリモコンは、不意をつく形で愛沢くんの頭に当たってしまったようだ。

 当たりどころが悪かったのか、あるいは爪か何かが当たって切れてしまったのかもしれない。

(……まずい)

 いずれにしても、彼の怒りは今までの比じゃない。
 どんな目に遭うか分かったものじゃない。

 いや、ここにいたら十中八九殺される。

 わたしはテーブルを支えに立ち上がり、慎重に後ずさった。
 すくんでしまいそうになる足をどうにか動かす。

 彼が一歩踏み込んだ瞬間、(きびす)を返して弾かれたように駆け出した。

「こころ!」

 廊下を抜け、玄関から外へ飛び出す。

 ぶわっと雨のにおいに包まれた。
 霞んだ景色に線状の雨が降り注いでいる。

 わたしは混乱状態のまま、無我夢中でその中を駆け抜けていった。



 つま先が水溜まりを跳ねる。
 雨音の真横を通り過ぎていく。

 心臓が暴れる。
 湿った空気が重たくて息苦しい。

 針のような雨が容赦なくわたしを突き刺す中、振り返ることなく歩道橋を駆けていった。

「…………っ」

 ────踏み出すごとに割れるような頭痛が響く。