一瞬何のことか分からず戸惑ったものの、呼び方のことだとすぐに思い至る。

「あ……は、隼人」

 動揺から激しく脈打つ鼓動のせいで、声が震えそうになってしまう。

 それでも彼の望むところに応えられたらしく、その顔に笑みが戻った。

 瞳が揺らぐのを自覚する。

 何かひとつでも間違えたら、その機嫌を(そこ)ねたら、それだけで豹変(ひょうへん)してしまうのではないだろうか。

 強く掴まれた手首の痛みと苛立った冷たい背中を思い出し、咄嗟にそう思った。

 星野くんから守るために必死で、なんてわけではなく、本当はただ気に食わなくてああしただけなんじゃ……?

 自分の不機嫌さをぶつけ、わたしを責めるために。

「おいおい、何て表情(かお)してんだよ。せっかく俺が迎えに来てやったのに」

 彼が踏み込んできて、思わず後ずさった。
 けれど、咄嗟に脚に力を込め、どうにかその場に踏みとどまる。

 “拒絶”と受け取られようものなら、間違いなく不興(ふきょう)を買ってしまう。
 無意識のうちに防衛本能が働いた。

 ぎゅ、と鞄の持ち手を握り締める。

「ご、ごめんね……。ありがとう」

 不安気な声色になる。
 つい窺うようにその目を見上げた。

 分からない。
 彼の求める言葉がこれで合っているのかどうか。

「いいって。当然だろ? 彼氏なんだからさ」

 ……それをどう解釈するかは別として、正解ではあったみたいだ。
 ほっと息をつく。

「行こうぜ」

「うん……」

 本当はひとりになりたかったけれど、仕方がない。
 ここで拒む勇気はさすがにない。



 落ち着かない気持ちで愛沢くんの隣を歩き出す。

 彼は色々と話してくれたけれど、その声は耳を通り過ぎていった。

「…………」

 強気で自信に満ちていてかっこいい男の子、そんな愛沢くんの印象が揺らぎ始める。

 思っていた以上に主張と意思が強くて、その上で凶暴性までちらつかせてくるから、対等に話すことも気軽に出来ない。

(わたしの考え過ぎならいいんだけど)

 自分の身体に残る暴力の痕跡(こんせき)に怯んでしまって、愛沢くんという人を誤解しているだけなら。

 それならただ、彼と接する中で見方を変えていけばいい。
 そうして真正面から向き合うべきだ。

 ────とはいえそうと言いきれない以上、見たくない可能性に目を向けて、ちゃんと疑うことも必要ではある。

 もし暴力が愛沢くんの仕業で、彼が本物の恋人ならとんでもないことだ。