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 隼人が眠ったのを確かめると、彼が使った方のコップも洗ってから家を出た。

 さぁ、と風が吹く。
 そのたびに針のむしろを押し当てられているようだった。
 身体中の傷が染みて痛い。

 夜、鏡の前に立ったら、きっと昨日より増えた痣が濃くなっているはずだ。

「…………」

 急速に(みじ)めになった。
 目の前がぼやけて滲む。

「!」

 歩道橋にさしかかったとき、先の方に人影が揺れた。

 誰かなんて考えなくても分かる。
 落ちた(、、、)先にいるのは彼しかいない。

 思わず逃げてしまおうかとも思ったけれど、その場から足が動かなかった。
 歩み寄ってきた彼がわたしの目の前で立ち止まる。

「……大丈夫なの?」

 躊躇(ためら)いがちに声をかけられ、慌てて顔を伏せた。

 見られたくない、と思ったけれど、伸びてきた彼の手が輪郭(りんかく)に届いてしまった。

「ここ切れてるし、頬も……」

 唇を噛み締めたとき、鉄のような味がした。
 ここ、が唇の端を指しているとそれで気が付いた。

 心底案じてくれる眼差しから逃れようとした。
 (いたわ)るようなその手を払いたかった。

 なのに、どうしても出来なかった。

 滲んだ視界が歪み、膨らんだ涙がこぼれ落ちる。
 次から次へ、傷に染みても止めどなく。

「こころ」

「わたし……本当にばかで、何にも見えてなくて、すぐ騙されて、信じたいものだけ信じちゃって……もう、どうしたらいいのか分かんない」

 言いながら溺れているような感覚になった。

 息が苦しい。うまく酸素を取り込めない。
 吸ったら吸ったで全然足りない。

「都合がいいよね……。でも信じる勇気が出ない。疑うことしか出来なくて」

 言い終える前に甘くて優しい香りに包まれた。
 抱き締めてくれた響也くんの温もりで不思議と強張りがほどけていく。

 あんなに痛かったはずなのに、まるで魔法みたいだった。

「……それでも僕に話してくれた」

 ────少なからずわたしには、響也くんのもとへ戻る意思があったのだと思う。

 そのあとどうするかなんてまるで考えていなかったけれど、確かに彼の優しさを求めていた。
 折れた心を癒してくれる、すりきれた全身に染み渡る、そんな優しさを。

「信じていいよ、僕は絶対に裏切らないから」