彼が水に口をつけた。
 それが喉元を通り過ぎたのが分かった。

(やった。よかった)

 作戦通りの展開が訪れ、ようやく少し気が抜ける。
 わたしはなるべく時間をかけて床を拭い、それが終わると落としたコップをキッチンへ持っていった。



 シンクの手前に手をつき、深く息を吐き出す。

 緊張で暴れていた心臓の音は未だに落ち着かず、耳に直接響いてくるようだった。

 手早くコップを洗うと、水を()んで飲み干した。
 渇いて空気が張りついていた喉がようやく生き返る。

 もう一度、今度は丁寧に洗い直したコップを水切りラックの上に伏せておくと、彼のいるリビングへ戻った。



 ソファーに座っている隼人は、背もたれの部分に肘をつき、窓の方をぼーっと眺めていた。

 いつもより自信なさげな横顔は、(もろ)くて傷つきやすそうに見える。
 でも今は、そのことをいくらか反省しているみたい。

 テーブルの上のコップはほとんど空だった。
 彼がゆるりとこちらを向く。

 呼ばれたわけでも手招かれたわけでもないけれど、わたしはその隣に腰を下ろした。

 身体を傾けた彼は、そのままわたしの肩にもたれかかってきた。

「こころ……」

 ほうけたようにぼんやりしているのは、薬のせい……だけじゃないかもしれない。

 わたしにだけ見せてくれる彼の一面だ。
 安心しきってすっかり気を許した、無防備(むぼうび)な甘えたがりの態度。

「うまく出来なくてごめん」

 暴力という、いびつな愛情表現のことだろうか。

 分かってはいる。
 彼は別に冷酷なサディストというわけじゃない。

 単にわたしを苦しめて、痛めつけて、それで喜んでいるわけじゃない。

「…………」

 隼人が小さく息をついた。
 たぶん、そのまま目を閉じた。

「……好きになってごめん」

 ぎゅ、と膝の上で拳を握り締める。

 そうやって揺さぶられた感情をどこへ追いやればいいのか、わたしには分からない。

 ただひとつ確かなのは、簡単に信じるべきではないということ。
 もう充分、傷ついた。疲れた。

(もう……騙されたくない)