しばらくすると、ジョーが着いたようで、玄関からは母と談笑する声が聞こえてきた。
「香澄、ジョーくんが待ってるから早くしなさい」
 母の声に、わかってると答え、コードを羽織って玄関に向かった。
 家の前に停められたジョーの車に乗り込むと、
「今さらだけど…あけましておめでとう」
 そう言われ、
「ほんと、今さら。もうとっくに松の内も過ぎてるのに」
 思わず突き放すような言い方をしてしまった。
 私たちは、知り合った頃からずっと年賀状のやり取りをしていたが、すれ違い始めてからは、どちらからともなく送らなくなった。
 ジョーは何も言わず車を走らせる。
「ねえ、何処へ行く気?」
「落ち着いて話せる場所へ行こう」
 私だって本当は、喧嘩したくてしているわけではないので、下手に摩擦が起こらぬよう、黙って窓の外を眺めていた。
 あっという間に空は暗くなってゆく。もはや、いま自分たちが何処に居るのかもわからないが、しばらくしてジョーは車を停めた。
「今日は割と暖かいから、少し歩こう」
「何処なの?ここ…何もないんだけど」
 車を降りたものの、街灯もなく、月灯りだけが辺りを照らしている。静寂の中、少し離れたところからは潮騒が聞こえてくる。
「足元、見えるか?一応、ペンライト持っては行くけど」
 今夜は満月の上に、雲一つないようなので、街灯がなくても足元ぐらいは見える。私たちは黙って波音のする方へ歩き出した。
 誰も居ない真冬の海辺を、黙ったまま並んで歩いている。二人で居て、こんな風に黙っているなんてことは、これまでになかった。 
 まだ仲の良かった頃は、他愛ないことから真面目なことまで、何でも飽きもせず話していたし、最近では、顔を合わせたら、いつも酷い喧嘩ばかりしているから。
「俺さ…香澄と喧嘩したくなんかないんだよ」
 沈んだような声でジョーが言う。
「だったら、どうして…」
 そこまで言いかけたが、愚問だと気付いて黙る。最近のジョーは本当に口うるさいが、親でさえ何も言わなくなった今、説教してくるのはジョーぐらいのものだ。
 マウント電話をかけてきていたあゆみは別として、他の友人らも、浪人生の私への遠慮なのか、もう友情が終わったのかはわからないが、向こうから連絡してくることはなく、私からもしづらくて、すっかり疎遠である。
 喧嘩ばかりとはいえ、私に本気で向き合ってくれるのは、今はもうジョーしか居ない。
「覚えてるか?香澄って、飽きっぽいところはあっても、いつもひたむきだったこと」
「そうだっけ?記憶にないけど…」
「少なくとも、同じ学校に通ってた小中学生の頃はそうだったよ。中学の頃、部活だって頑張ってたじゃん。高校からは学校も変わったし、彼氏が出来たって聞いたから、あんまり連絡もしなくなったけど」
 すっかり忘れていたが、高校生になってすぐ、彼氏ができた。
 ただ、あまりにも早く別れているので、もはやその存在を思い出すことすら全くなかったが。
「あー…居たね、そんな人。私はすっかり忘れてたのに、ジョーは覚えてたんだ」
 そう言うと、ジョーは苦笑いで、
「まあな。あの頃、俺としてはショックだったからさ」
「ショック?」
「香澄が遠くに行ってしまったような気がして。それに、高校生になった頃から、どことなく変わったし。俺の知ってる香澄が何処にも居なくなってしまったような…そんな感じがしたんだ」
 ジョーがそんなことを思っていたなど初耳である。私は、ジョーがすっかり変わってしまったと思っていたが、同じように私ののことを変わってしまったと思っていたのか。
「昔の私、ひたむきだったかな…?自分では全然そんなつもりはなかったけど」
「全てに対してじゃなくても、確かに一生懸命だったよ。ピアノの発表会だって、誰にも負けないように難曲を選んで、先生からまだ早いって言われても、本番までにはちゃんと弾けるようにもなってたじゃん」
「それは…単に意地になってただけ。誰かに負ける自分がどうしても許せなかったというか…」
 そうだ。あの頃は、良くも悪くもかなりの負けず嫌いだった。明らかに苦手な分野は、どうでも良かったが、自分の中で得意とするものであれば、誰にも負けるなんて絶対に嫌…そんな風に思っていた。
「でも、結局は中学生になってすぐ、ピアノやめちゃったけどね。部活と両立出来ないし、誰かに負ける前にやめたかったのもあるかな」
 年齢的にも、あれは勇退なんかではなく、ただ逃げただけだ。中学の部活は基本的に掛け持ちできなかったが、吹奏楽部の私は人数の足りない合唱部からもコンクール前になると呼ばれて、なかなか多忙だった。
「香澄の夢とかやりたいことって何?」
 唐突に尋ねられ、言葉に詰まる。実は、そんなことを考えたことがこれまでに全然なかった。昔は、ピアノが得意だったという理由でピアニストになりたいと適当に答えていたが、それは本心ではない。何もないからそう答えただけだ。
 大学受験にしても、自分が何をしたいのかよくわからないものの、理系が苦手だから消去法で文系。文系でも、教育学部や法学部は明らかに違う気がしたから、心理学部や文学部を志望していたものの、それだって本当に勉強したかったわけではない。本音を言えば、とりあえず大学に行く、どうせ行くなら少しでもレベルの高い大学に…という、かなり酷い志望動機だった。
「情けないけど…何もないんだ。これといってやりたいことなんて。本当は、無理して大学に行かなくても、ちゃんと食べていけるなら何でもいいと思ってる」
 こんな答えだと、またジョーは説教してくるだろうか。
「そうか。じゃあ、まずはやりたいことを探すとか」
「うーん…それすらわかんないの。情けないのは判ってるけど、いつも消去法でやってきてたから」
「じゃあ、いっそのこと消去法で決めるのもいいんじゃないか?」
 思いがけない言葉に、思わずジョーを見つめる。
「実は、俺だって決して偉そうなこと言えないんだ。うちは裕福じゃないから、地元の国立に行くしかなかった。医学部にストレートで入れるだけの学力はないから、妥協して薬学部にしたんだけど…今は毎日が楽しいと思ってるよ。そういうことだってあるんだって、香澄には知っていて欲しかった」
 思わず黙り込んでしまうと、
「おっと…女の子は体冷やしたらダメだよな。そろそろ帰ろう」
 そう言われ、私たちは誰も居ない海をあとにした。