「今日は奢る。だから、お願いします。昼間のことは忘れてください」


 向かいの席に大樹が座った瞬間、樹里は深々と頭を下げた。忘れて欲しいのは、勿論千裕に会ってしまった時のこと、全てである。

 あの後、会社に戻って、無心に仕事をした。多分、ちゃんと出来ていたはずだ。だが我に返ったのは、「定時ですけど、大丈夫ですか」と大樹が声をかけてくれた時。部下にそんな顔をさせて、何をしている。自分に腹が立つのに、大丈夫だと笑い返せなかった。あの人のせいですよね、と大樹が続けた。ワザとではなかっただろう。純粋に心配してくれたのだと思う。その言葉にも答えられず、「付き合って」とだけ言って、彼をここまで引き連れて来た。二度と触れられたくないし、誰にも聞かれたくない。そんな醜い思いを抱えて、口止め料にしては安い居酒屋に。


「分かりました、樹里さん。今日は金曜日です。もう飲みましょう。それから……飲みましょう」
「……飲んでるだけじゃん」
「そりゃ、そうですよ。金曜日ですからね。明日は起きられなくたっていいんです」


 大樹が胸を張った。きっと、彼は察しているのだ。薄々だとしても、あれは触れてはいけないことだ、と。やたら元気に振舞って、精の出るようなメニューばかりを押し付けて来る。樹里はパシンと頬を叩くと、よし飲むか、と上を向いた。


「お腹空いてるでしょう? まずは自分の好きなの頼んで」

 やった、と言ったが早く、樹里に突き出していたメニューの向きを変える。口止め料にするならば、もう少しいい物を食べさせたら良かったな。ようやくそこまで頭が回って、嬉々としてメニューを覗き込む彼に、ほんの少し申し訳なさを感じる。