それから、のんびりと過ごしていた莉子の毎日は突然慌ただしくなる。

司から話しを聞き、急ぎでドレスを作ることになった莉子と亜子は、直ぐに駆けつけてくれた紀伊國屋の支店長から、言われるままに生地を選ぶ。

さすが天下の紀伊國屋、なんとか晩餐会の日までにドレスを待ち合わせると約束してくれた。

そして、ダンスの先生は次の日にはやって来た。

「こんにちは莉子ちゃん亜子ちゃん。こんなにも早く君達に会えるとは思わなかったよ。」

やって来たのは紀伊國屋の若旦那、井口慎之介だった。

聞けば司から相談を受けた横浜の支店から、1番暇な若旦那が抜擢されたらしく、とりあえず急ぎで汽車に乗って来てくれたという。

「わざわざ遠方からありがとうございます。」
莉子が深く頭を下げると、

「生地の買い付けで横浜にはよく来るんだよ。それも兼ねているから気にしないで。それにしても、この洋館が新居とは長谷川家は羽振りがいいねー。」

莉子達が住む洋館内を見渡して、若旦那が驚きの声を上げている。

「あの…主人は忙しくて…ご挨拶が出来なくて、申し訳ありません。お昼頃には顔を出すと申しておりましたが…。」
莉子が恐縮してそう話すと、

「司君には来る時に少し駅で会ったよ。今から商談を2件こなして帰って来ると言っていた。僕がダンスの先生ってのはかなり驚いていたけどね。」

若旦那が笑顔を向けてくれるから、莉子はホッと肩を撫で下ろした。

「若旦那様、ご無沙汰しております。」
2階から亜子が駆けつけ若旦那に挨拶をする。

「こんにちは。君が亜子ちゃんだったとは…全く気付かなかったよ。でも、白化粧を取ったら、なんとなく昔の面影があるね。」
亜子をまじまじと見つめ、若旦那は確認する。

「あの…その後、夕顔姐さんとは?」
亜子は1番知りたくて、でも聞き難い事をあえて1番始めに聞く。

「あの後も何度か会いに行ったけど…もう来ないでくれって断られちゃって。」
苦笑いする若旦那は少し寂しそうに見える。

「何故⁉︎あんなに相思相愛に見えたのに…。」
驚きの余り、亜子の声が大きくなる。

「俺が心ここに在らずだったのを見透かされたんだ…きっと。」

「他に…どなたか良い人が?」

「いや…昔の初恋相手に偶然会ってね。
ちょっとあの頃の気持ちが蘇ったというか…心乱れたのはきっと、後悔ばかりを思い出したからかもしない。」

珍しく感傷的な若旦那は、どこか傷付いたような表情で、無理矢理笑うから痛々しくて、さすがの亜子もこれ以上深掘りする事を躊躇する。

「叶わない恋は、するべきではありません…。」

亜子の大人びた発言に、一瞬空気が冷んやりするのを感じる。

「亜子ちゃんの言うとおりだ。」

ふーと深いため息を吐く若旦那に、どう言葉をかけ慰めるべきか莉子は分からず立ち尽くす。

「さぁ、君達には時間が無いんだ。早くダンスの稽古を始めよう。」