支度の終わった間宵紫月が、私の背後に立っていた。
「わけわかんねーこと言ってないで、帰るぞ」
「はーい……」
わりと本気で思ってたんだけどなぁ。
◆
マスターに手を振って、暗い夜道を歩き出す。
今日は楽しかったな。
……でも、樹莉ちゃんのことが、ちょっと不安だ。
やっぱ、好きなのかな?
間宵紫月のこと。
紫月、って呼んでた。
そういえば私、彼の名前、呼んだことないかも。
なんて呼べばいいかわからないし。
でも確か、好きに呼べって言ってたよね。
「……紫月」
考えてたら、口から出てしまった。
彼が立ち止まって、振り返る。
「あ、ごめ、なんでもな――」
「何? 陽奈」
今、私の名前を呼んだ?
「……おい、人のこと呼び止めておいて黙るなよ」
「なっ、名前! 初めて呼んだ!」
「そうだっけ」
「そうだよ! いつもお前とかヒヨコとかって!」
「覚えてねぇ」
絶対、わざとだ。
意地悪そうな微笑みは、そういうときにやる顔だ。
「……紫月って呼んでいい?」
「なんでもいい」
「しーちゃん?」
「それはよくねぇ」
「ふふ、なんでもよくないじゃん」
「うっせぇ。お前、あんまり離れんなよ。夜なんだから」
紫月の服の裾を掴んでみたが、何も言われなかった。
つまり、これは許されるらしい。
なんだかちょっとだけ、近づけたような気分になった。



