シルヴェリオがそっと手を伸ばすと、犬は自分の頭を擦り付けてくる。尻尾を千切れそうなほど振っており、軍用犬だが随分と人懐っこい性格のようだ。
柔らかな毛は、かつてシルヴェリオが内緒でお菓子をあげていた仔犬に触れた時とよく似ている。
「ルーチェが愛嬌を振りまくなんて珍しいな。いつもは、初めて会った人間には特に警戒しているのに」
騎士団長が犬の口にした名前を聞いた途端、シルヴェリオはバネが弾むように勢いよく顔を上げ、騎士団長を見た。
彼が口にした名前は、シルヴェリオがかつて屋敷に迷い込んできた仔犬につけた名前と全く同じだ。
初めて心を通わせた仔犬を想い、自分の知る限り最も幸せを呼び寄せてくれそうな名前をつけた時の気持ちが蘇る。
見た目が似ているだけではなく名前が同じだなんて、偶然にしては出来過ぎているように思えた。
「なぜ、その名前をつけたのですか?」
目の前にいるルーチェが自分の知る犬ではないはずなのにと思いながらも、どうしても理由を確認せずにはいられなかった。
思わず尋ねると、騎士団長の代わりにヴェーラが答える。
「シルヴェリオが一生懸命考えた名前だから、そのまま呼んでいるに決まっているだろう」
「姉上は、俺が仔犬を世話していたことを……ご存知だったのですか? しかし、俺の知るルーチェだとしたら、もう老犬になっていてもおかしくないのですが……」
なんせ、うんと幼い頃に出会った仔犬だったのだ。無事に成長していたとしても今は老犬になっており、こんなにも元気に走り回れるはずがない。
そもそも犬の人生は人間より短いはず。ルーチェにはもう一生会えないのだと思っていた。
「騎士団長が気づいたのだが、ルーチェは犬と妖精犬の混血でな、普通の犬よりもうんと長く生きるそうだ」
「ええ、この榛色の毛を見た時に普通の仔犬ではないと直感したのですが、成長するにつれて人語を話すようになり、魔法を使えるようになりました。犬や猫の中には、稀に妖精の血を引く個体が生まれることがあると聞いたことがあるんです。妖精の血が流れている個体は、妖精と同じような力を引き継ぐのですよ」
ヴェーラの言葉に、騎士団長が頷く。
二人の言葉を頭の中で反芻し、信じられない想いで目の前にいるルーチェに再び顔を向けた。
こちらを見つめ返すルーチェを見ていると、胸が高鳴る。
妖精の血を引き継いだ動物の話は、黒の魔塔でも聞いたことがあった。しかし、実物を見たのは初めてだ。
それも、自分にとって大切だが、悲しい思い出でもあったルーチェがその存在だったなんて、衝撃が強過ぎて心が追いついていない。
「ルーチェ……無事でよかった」
『あのね、ごはんをくれてありがとうって、ずっと言いたかったんだよ。仔犬の頃はいつもお腹がペコペコだったから、君が美味しいご飯をくれてとっても嬉しかったの!』
ルーチェは溌剌とした少女のような声で話しかけてくれる。
ずっと昔の出来事なのに、自分以外の人間にもたくさん出会ってきたはずなのに、彼女もまた当時のことを覚えてくれていたことに胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。
「しかし、なぜルーチェがこの屋敷にいるんだ? 俺の記憶が正しければ、ルーチェは屋敷から追い出されたはず……」
「ああ、ルーチェはコルティノーヴィス伯爵家の騎士団で働く軍用犬なんですよ。ルーチェが追い出された時、ヴェーラ様が騎士団長に命令して保護して、軍用犬として育てさせたんです。あの時のヴェーラ様、必死でとても可愛かったですねぇ」
リベラトーレがすかさず答えてくれた。当時のことを思い出しているのか、うっとりと目を細め、恍惚とした表情を浮かべて少し不気味だ。
これ以上彼から昔話を聞かされないよう、ルーチェを撫でることに専念する。
「本当に偶然なのだが、犬の世話をしている姿を何度か見かけたのだよ。だから、使用人がつまみ出している現場に居合わせた時、シルヴェリオがルーチェと呼んでいる犬だと気づいたから、近くにいた騎士団長に命じて育てさせたんだ」
シルヴェリオの隣に身を屈めたヴェーラが、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「再会させたいと思っていたが、もしシルヴェリオにとって悲しい記憶を思い出すようなことになるのであれば止めるべきではないかと、思い留まっていた。しかし、最近シルヴェリオとよく話すようになって、私が慎重すぎたのかもしれないと反省してな。せっかくだから、捜査の協力のために連れてきてもらった。ルーチェは先ほどまで、メイドが持っていた瓶の中身の行方を辿ってくれていたのだよ」
「……そう、だったのですね。ルーチェはずっと、コルティノーヴィス伯爵家のために働いてくれていたのに気づけなかったのは……俺がこの家から逃げていたせいですね」
自分は歓迎されない存在であることを思い知らされたくなかった。
これ以上、嫌悪を向けられたくなかった。
ヴェーラには無害な存在であると証明して、煩わしい駆け引きを遠ざけたかった。
だから自分からコルティノーヴィス伯爵家を避けてきたが、そのせいで誰かの優しさからも目を背けてきたのだと痛感する。
早くそのことに気付けていたら、変わっていた未来があったのかもしれない。
コルティノーヴィス伯爵家を乗っ取ろうとしているといった周りの声など気にせずに姉の仕事を手伝っていれば、彼女が抱える負担や苦労は減っていたのではないか。
自分の情けなさに歯噛みしていると、ルーチェが大きな体をシルヴェリオに預けて見上げてくる。撫でるだけでは足りないといった眼差しで見つめてくるルーチェに微笑み、ギュッと抱きしめると、ルーチェは尻尾をシルヴェリオの体に打ちつけるように振りながら、何度も『大好き』と言ってシルヴェリオの頬を舐めてくる。
おかげで少しだけ元気を取り戻したシルヴェリオは、ルーチェを抱きしめたままヴェーラと騎士団長それぞれに顔を向けた。
「姉上、騎士団長、ルーチェを助けてくれて、ありがとうございます。ルーチェは俺のせいで辛い目に遭っているだろうと思っていたので、追い出されずに済んでいたとわかって安心しました」
ヴェーラも騎士団長も、嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「もしもルーチェに会いたくなったら、いつでも来るといい。任務で領地に行くこともあるが、たいていはタウン・ハウスの敷地内にある騎士団の詰め所にいるからな」
「ありがとうございます。ルーチェの仕事の邪魔にならない範囲で会いに行きます」
『わーい! 一緒に遊ぼう! 私、ボール遊びが得意なの!』
ルーチェに話し掛けられているシルヴェリオは、彼らのやり取りを見ていたヴェーラとリベラトーレがこっそりと話していることを知らなかった。
「シルヴェリオ様がタウン・ハウスに来る理由を新たに作れて良かったですね、ヴェーラ様」
「ああ、やはりもっと早くに再会の場を設けるべきだったと後悔している。犬を愛でるシルヴェリオは可愛らしいな」
「ま~たそんなことを言って! シルヴェリオ様に嫉妬しちゃうな~」
そして、知らない間にリベラトーレの嫉妬心を煽ってしまっている事も、知らないままである。
「――さて、騎士団長。リーチェによる捜査結果を教えてくれるか?」
ヴェーラの言葉を聞いたシルヴェリオは、ルーチェを撫でる手を止めた。しかし、まだ撫でたりないと甘えてくるルーチェが鼻先でシルヴェリオの手を突いてくるため、背中をゆったりと撫でる。
「はい。毒物は庭園の生垣に破棄しており、液体がかかった木の幹が腐食しています。その後、リーチェは別の場所からも同じ匂いがすると言い、騎士を一人、警戒して吠えました。その騎士は拘束して、地下牢に閉じ込めています」
「騎士からも同じ匂いか……。あのメイドの協力者であるのかはこれから調べるとして、協力者でなかったとしても、毒の匂いがする者を見過ごすわけにはいかないな。その騎士の名は?」
「ウーゴ・トノーニ。実家は子爵家です」
「……ふむ。この者もまた、レステッリ前伯爵の紹介で父上が雇っていたな」
メイドも騎士も、レステッリ前伯爵の紹介者という共通点があるということは――共犯者の可能性がある。
もしかすると、先日行われた取り調べで二人がお互いに偽の証言で庇い合っているのかもしれない。
「屋敷の中に、レステッリ前伯爵の手の者が他にも隠れているかもしれないな。以前から私のことも母上と同様に政治の駒にしようとして鬱陶しかったから、これを機に一掃して牽制するとしよう」
ヴェーラはバラのように真っ赤な唇で弧を描く。
「レステッリ前伯爵にとって母上は駒であり、都合の良い人形だっただろうが――娘の私も自分の所有物になるとは思ってくれるなよ」
血の繋がった祖父への宣戦布告をするヴェーラの瞳には、憎悪が滲んでいるように見えた。
柔らかな毛は、かつてシルヴェリオが内緒でお菓子をあげていた仔犬に触れた時とよく似ている。
「ルーチェが愛嬌を振りまくなんて珍しいな。いつもは、初めて会った人間には特に警戒しているのに」
騎士団長が犬の口にした名前を聞いた途端、シルヴェリオはバネが弾むように勢いよく顔を上げ、騎士団長を見た。
彼が口にした名前は、シルヴェリオがかつて屋敷に迷い込んできた仔犬につけた名前と全く同じだ。
初めて心を通わせた仔犬を想い、自分の知る限り最も幸せを呼び寄せてくれそうな名前をつけた時の気持ちが蘇る。
見た目が似ているだけではなく名前が同じだなんて、偶然にしては出来過ぎているように思えた。
「なぜ、その名前をつけたのですか?」
目の前にいるルーチェが自分の知る犬ではないはずなのにと思いながらも、どうしても理由を確認せずにはいられなかった。
思わず尋ねると、騎士団長の代わりにヴェーラが答える。
「シルヴェリオが一生懸命考えた名前だから、そのまま呼んでいるに決まっているだろう」
「姉上は、俺が仔犬を世話していたことを……ご存知だったのですか? しかし、俺の知るルーチェだとしたら、もう老犬になっていてもおかしくないのですが……」
なんせ、うんと幼い頃に出会った仔犬だったのだ。無事に成長していたとしても今は老犬になっており、こんなにも元気に走り回れるはずがない。
そもそも犬の人生は人間より短いはず。ルーチェにはもう一生会えないのだと思っていた。
「騎士団長が気づいたのだが、ルーチェは犬と妖精犬の混血でな、普通の犬よりもうんと長く生きるそうだ」
「ええ、この榛色の毛を見た時に普通の仔犬ではないと直感したのですが、成長するにつれて人語を話すようになり、魔法を使えるようになりました。犬や猫の中には、稀に妖精の血を引く個体が生まれることがあると聞いたことがあるんです。妖精の血が流れている個体は、妖精と同じような力を引き継ぐのですよ」
ヴェーラの言葉に、騎士団長が頷く。
二人の言葉を頭の中で反芻し、信じられない想いで目の前にいるルーチェに再び顔を向けた。
こちらを見つめ返すルーチェを見ていると、胸が高鳴る。
妖精の血を引き継いだ動物の話は、黒の魔塔でも聞いたことがあった。しかし、実物を見たのは初めてだ。
それも、自分にとって大切だが、悲しい思い出でもあったルーチェがその存在だったなんて、衝撃が強過ぎて心が追いついていない。
「ルーチェ……無事でよかった」
『あのね、ごはんをくれてありがとうって、ずっと言いたかったんだよ。仔犬の頃はいつもお腹がペコペコだったから、君が美味しいご飯をくれてとっても嬉しかったの!』
ルーチェは溌剌とした少女のような声で話しかけてくれる。
ずっと昔の出来事なのに、自分以外の人間にもたくさん出会ってきたはずなのに、彼女もまた当時のことを覚えてくれていたことに胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。
「しかし、なぜルーチェがこの屋敷にいるんだ? 俺の記憶が正しければ、ルーチェは屋敷から追い出されたはず……」
「ああ、ルーチェはコルティノーヴィス伯爵家の騎士団で働く軍用犬なんですよ。ルーチェが追い出された時、ヴェーラ様が騎士団長に命令して保護して、軍用犬として育てさせたんです。あの時のヴェーラ様、必死でとても可愛かったですねぇ」
リベラトーレがすかさず答えてくれた。当時のことを思い出しているのか、うっとりと目を細め、恍惚とした表情を浮かべて少し不気味だ。
これ以上彼から昔話を聞かされないよう、ルーチェを撫でることに専念する。
「本当に偶然なのだが、犬の世話をしている姿を何度か見かけたのだよ。だから、使用人がつまみ出している現場に居合わせた時、シルヴェリオがルーチェと呼んでいる犬だと気づいたから、近くにいた騎士団長に命じて育てさせたんだ」
シルヴェリオの隣に身を屈めたヴェーラが、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「再会させたいと思っていたが、もしシルヴェリオにとって悲しい記憶を思い出すようなことになるのであれば止めるべきではないかと、思い留まっていた。しかし、最近シルヴェリオとよく話すようになって、私が慎重すぎたのかもしれないと反省してな。せっかくだから、捜査の協力のために連れてきてもらった。ルーチェは先ほどまで、メイドが持っていた瓶の中身の行方を辿ってくれていたのだよ」
「……そう、だったのですね。ルーチェはずっと、コルティノーヴィス伯爵家のために働いてくれていたのに気づけなかったのは……俺がこの家から逃げていたせいですね」
自分は歓迎されない存在であることを思い知らされたくなかった。
これ以上、嫌悪を向けられたくなかった。
ヴェーラには無害な存在であると証明して、煩わしい駆け引きを遠ざけたかった。
だから自分からコルティノーヴィス伯爵家を避けてきたが、そのせいで誰かの優しさからも目を背けてきたのだと痛感する。
早くそのことに気付けていたら、変わっていた未来があったのかもしれない。
コルティノーヴィス伯爵家を乗っ取ろうとしているといった周りの声など気にせずに姉の仕事を手伝っていれば、彼女が抱える負担や苦労は減っていたのではないか。
自分の情けなさに歯噛みしていると、ルーチェが大きな体をシルヴェリオに預けて見上げてくる。撫でるだけでは足りないといった眼差しで見つめてくるルーチェに微笑み、ギュッと抱きしめると、ルーチェは尻尾をシルヴェリオの体に打ちつけるように振りながら、何度も『大好き』と言ってシルヴェリオの頬を舐めてくる。
おかげで少しだけ元気を取り戻したシルヴェリオは、ルーチェを抱きしめたままヴェーラと騎士団長それぞれに顔を向けた。
「姉上、騎士団長、ルーチェを助けてくれて、ありがとうございます。ルーチェは俺のせいで辛い目に遭っているだろうと思っていたので、追い出されずに済んでいたとわかって安心しました」
ヴェーラも騎士団長も、嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「もしもルーチェに会いたくなったら、いつでも来るといい。任務で領地に行くこともあるが、たいていはタウン・ハウスの敷地内にある騎士団の詰め所にいるからな」
「ありがとうございます。ルーチェの仕事の邪魔にならない範囲で会いに行きます」
『わーい! 一緒に遊ぼう! 私、ボール遊びが得意なの!』
ルーチェに話し掛けられているシルヴェリオは、彼らのやり取りを見ていたヴェーラとリベラトーレがこっそりと話していることを知らなかった。
「シルヴェリオ様がタウン・ハウスに来る理由を新たに作れて良かったですね、ヴェーラ様」
「ああ、やはりもっと早くに再会の場を設けるべきだったと後悔している。犬を愛でるシルヴェリオは可愛らしいな」
「ま~たそんなことを言って! シルヴェリオ様に嫉妬しちゃうな~」
そして、知らない間にリベラトーレの嫉妬心を煽ってしまっている事も、知らないままである。
「――さて、騎士団長。リーチェによる捜査結果を教えてくれるか?」
ヴェーラの言葉を聞いたシルヴェリオは、ルーチェを撫でる手を止めた。しかし、まだ撫でたりないと甘えてくるルーチェが鼻先でシルヴェリオの手を突いてくるため、背中をゆったりと撫でる。
「はい。毒物は庭園の生垣に破棄しており、液体がかかった木の幹が腐食しています。その後、リーチェは別の場所からも同じ匂いがすると言い、騎士を一人、警戒して吠えました。その騎士は拘束して、地下牢に閉じ込めています」
「騎士からも同じ匂いか……。あのメイドの協力者であるのかはこれから調べるとして、協力者でなかったとしても、毒の匂いがする者を見過ごすわけにはいかないな。その騎士の名は?」
「ウーゴ・トノーニ。実家は子爵家です」
「……ふむ。この者もまた、レステッリ前伯爵の紹介で父上が雇っていたな」
メイドも騎士も、レステッリ前伯爵の紹介者という共通点があるということは――共犯者の可能性がある。
もしかすると、先日行われた取り調べで二人がお互いに偽の証言で庇い合っているのかもしれない。
「屋敷の中に、レステッリ前伯爵の手の者が他にも隠れているかもしれないな。以前から私のことも母上と同様に政治の駒にしようとして鬱陶しかったから、これを機に一掃して牽制するとしよう」
ヴェーラはバラのように真っ赤な唇で弧を描く。
「レステッリ前伯爵にとって母上は駒であり、都合の良い人形だっただろうが――娘の私も自分の所有物になるとは思ってくれるなよ」
血の繋がった祖父への宣戦布告をするヴェーラの瞳には、憎悪が滲んでいるように見えた。


