追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

 コルティノーヴィス伯爵家の廊下を歩いていると、微かに甘い花の蜜のような香りがした。
 何の香りだろうと不思議になったフレイヤが鼻をくんくんと動かして香りの元を探ると、フレイヤとシルヴェリオが廊下を歩いているため隅に避けてくれているメイドから漂っているようだ。
 壮年くらいのメイドで、そつがない姿勢でフレイヤとシルヴェリオに頭を下げてくれている。
 
 仕事柄、匂いの正体が気になってしまうが、忙しいメイドに聞くのは気が引けた。
 それでもちらちらとメイドを見ていると、隣を歩いていたシルヴェリオが立ち止まったため、フレイヤも足を止める。

「フレイさん、どうしたんだ?」
 
 シルヴェリオに話しかけられ、足を止めた原因は自分だったとわかったフレイヤは、弁明するように両手を横に振った。
 
「不思議な香りがしたので、つい気になって辺りの匂いを嗅いでいました」
「……どんな香りだ?」

 シルヴェリオが眉間に皺を刻んだので、フレイヤは自分が屋敷を「臭い」と言ったのだと勘違いされたのではと焦る。
 コルティノーヴィス伯爵家の屋敷が臭いわけがない。むしろ、いつ来ても異臭や強い香りは無く、屋敷の手入れが行き届いているのだ。
 
「あ、あの、臭いということではないですよ? 花の蜜のような香りだなぁと思ったんです。建物の中なのに花の蜜の香りがするのが不思議でしたので、何から香るのか探っていました」

 そう話していると、なぜか、近くにいるメイドの肩が揺れた。匂いの元となっているメイドで、明らかに動揺したような動きだった。
 しかし、気になって顔を向けてみても、澄ました表情でいる。
 確かにびくりと動いていたように見えたが、見間違いだったのだろうか。
 横目で見ていたから、見間違いだったのかもしれないと、自分の中で完結させた。
 
「その香りは、どこからする?」
「ええと……このお方からです」
 
 フレイヤが手で示すと、シルヴェリオはそのメイドを睨んだ。
 深い青色の瞳が、いつもとは違い、身震いするほどの冷気を帯びている。
 
 肌を刺すような張り詰めた空気に息苦しさを感じた。
 自分が睨まれているわけではないのに、フレイヤは息を呑んでその場に立ち尽くす。
 
「なにか香りがするものを持っているようだな。見せてもらえるか?」
「いえ、わたくしは何も持っておりません。お客様のおっしゃる香りとは、私がつけている香水の香りでしょう」
「……そうか。――リベラトーレ、姉上に関する話がある。ここに来てくれ!」

 廊下に響くほど大きな声でシルヴェリオが叫ぶとすぐに、リベラトーレが「は~い」と陽気な返事をしてきた。そうして程なくして、にっこりと笑みを浮かべたリベラトーレが姿を現す。
 
 ただ香りが気になって言っただけなのに、なんだか大事になってしまった。
 フレイヤはシルヴェリオとリベラトーレとメイドを交互に見つめる。

 もしかして、コルティノーヴィス伯爵家の使用人は香水を使うことを禁じていたのに、このメイドが使っていたから、罰せられるのだろうか。
 そうであるのなら、少し罪悪感を覚えた。
 取り決めを破ることは良くないが、調香師という立場上、自分の発言のせいで香水の愛用者が罰せられることになるのは申し訳ない。
 
「シルヴェリオ様が私を呼ぶなんて珍しいですねぇ~。いったいどうしたのですか~?」
「フレイさんの鼻が、この使用人から花の蜜のような香りを嗅ぎ取ったのだが、何も持っておらず、自分がつけている香水の香りだと主張しているが、俺はなにも臭わないから不審だ。執事頭とメイド頭と騎士団長を呼んで、この者を取り調べてくれ」 
「かしこまりました~。たしかに、私もまったくそれらしき匂いをかぎ取れないですね。フレイヤちゃん、ご協力ありがとうね~」

 そう言い、リベラトーレが片眼をつむって見せてきた。
 呆気に取られていると、彼は両手を打ち鳴らし、近くにいる他の使用人たちに件のメイドを拘束させ、連行する。

「誤解です! 本当に、私がつけている香水の香りなんです!」
 
 メイドが何度も必死に弁明するが、誰も彼女の話を聞かない。そのまま、メイドの声が遠ざかってゆく。

「シルヴェリオ様、いったいどうして、あのようなことをなさったのですか? もしかして、花の蜜のような香りがしてはいけない理由があるのですか?」
「……ああ。実はつい最近、姉上が毒を盛られたんだ。食事に混ぜられていたのに銀食器には反応しなかったため、気づけない毒だった。だから、姉上が口にするものに入れられそうな薬品に警戒している。フレイさんはあのメイドから花の蜜のような香りがするといったが、俺は全くわからなかったから、きっとフレイさんが嗅いだ香りは、あのメイドが隠し持っている何かの香りだったのだろう。それが姉上を害するために用意されたものなのか調べるためにも、リベラトーレを呼んだんだ」
「そう……だったのですね」

 ヴェーラが毒に倒れていたことは、パルミロから聞いている。 シルヴェリオとリベラトーレたちが警戒しているということは、まだ犯人が捕まっていないのだろう。
 青ざめて弁明していたメイドの表情を見ると気の毒に思ってしまったが、彼女が犯人であるのなら、裁かれるべきだと思う。
 ヴェーラのように心優しい貴族が辛い思いをするなんて、あまりにも理不尽だ。
 
「見苦しいところを見せてすまない。香水工房へ行――」
「コホン」 
 
 シルヴェリオが話しかけてくれた時、フレイヤとシルヴェリオに五十代くらいの男性が歩み寄ってきて、わざとらしく咳払いした。
 驚いたフレイヤが顔を向けると、男性は自分とシルヴェリオをそれぞれ睨みつけてきている。
  
 その男性の身長はフレイヤくらいで、白髪交じりの白金色の髪はきっちりと撫でつけられており、緑色の瞳は鋭く、冷血な雰囲気があった。
 身に着けている灰色のフロックコートとスラックスは上質な生地で作られていることが一目でわかるから、貴族なのだろう。
 
「……レステッリ前伯爵。お久しぶりです」 
「チッ、卑しい血が入っているくせに、大きな顔でこの屋敷を歩いているようだな!」

 シルヴェリオが礼儀正しく挨拶をしたのに、男性――レステッリ前伯爵は声を張り上げてそう言うと、シルヴェリオを睨みつける。
 
 まるで、かつてカルディナーレ香水工房でフレイヤに対して威圧的な言動をとってきた、工房長のアベラルドのようだ。
 当時の記憶が脳裏を過ったフレイヤは、体が固まってしまった。頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。

(卑しい血だなんて……どうして、そんなにも酷い言葉を平気で言えるの?)
 
 このところは、シルヴェリオやヴェーラにネストレとの交流が多く、稀に交流するその他の上流階級の人々もフレイヤに対して好意的だったため、久しぶりに目の当たりにした貴族特有の目下の者を見下す態度に不快感を覚えた。
 それなのに、シルヴェリオは眉を顰めず、いつも通りのスンとした表情でレステッリ前伯爵を見つめ返すだけ。

 前伯爵であれば、シルヴェリオと同様に爵位を持っていないことになるが、シルヴェリオはレステッリ前伯爵の無作法を指摘するつもりはないだしい。
 
「お前のような(けが)れた存在を庇っているから、ヴェーラは臣下らに侮られて、あのような事件が起きたのだ。それなのにのうのうと屋敷を出入りしているとは、あの娼婦とおなじく面の皮が厚いようだな」
「――っ」 
 
 心無い言葉の数々に、フレイヤは絶句した。
 ヴェーラを呼び捨てにし、シルヴェリオの産みの母親を嫌悪していることから、彼女の親戚にあたるのかもしれない。 
 となると、毒で倒れたヴェーラを心配して、この屋敷を訪れてきたのだろう。
 
 いくら身内が心配とはいえ、罪のないシルヴェリオを罵るなんて、無礼ではないか。
 恐怖に支配されていたフレイヤの胸の中から、怒りが湧き起こる。

 しかし、自分の大切な上司を侮辱する言葉は許しがたいが、自分が口を出したところで状況が悪くなるだけだ。平民が口を出したところで、貴族が素直に耳を貸してくれるはずがない。
 アベラルドのような貴族なら、なおのことだ。
 
 自分はなんて、無力なのだろう。
 いつも助けてくれているシルヴェリオのために何もできないことが悔しくて、フレイヤは指の爪が皮膚に食い込むほど手を握りしめる。
 
 シルヴェリオの顔をちらりと窺うと、表情の抜け落ちた顔で、レステッリ前伯爵を見つめたままだ。
 どことなく、その表情には諦念の色が滲んでいた。
 何を言っても、レステッリ前伯爵には言葉が通じないのだと思っているように見える。
 そして、傷ついているようにも見えた。

(いつもシルヴェリオ様に助けてもらっているのに、私は何もできないんだ……)

 足元に視線を落とすと、コルティノーヴィス香水工房の制服の裾が視界に入る。
 新しい職場に洗練された制服を着て、調香師として新たな人生を送っているのに、このままでは以前と何も変わっていないような気がした。
 
 それどころか、理由もなく罵られている様子を黙って見ているだけなんて、アベラルドに罵られていた時に自分を助けてくれなかった同僚たちと同じではないか。
 震える手を、更に強く握りしめる。そして、背筋をしゃんと伸ばし、目に力を入れてレステッリ前伯爵を見据えた。
 
「継承権を捨てたのは本心ではなく、本当はいつかヴェーラの地位を奪うために無害を演じただけなのではないか? お前はいるだけで周りを不幸にする呪いの子なんだ。本当にヴェーラの地位を脅かすつもりが無いのであれば、今すぐこの国から消えろ!」
「……僭越ながら、証拠もないことで一方的にコルティノーヴィス卿を責めて蔑むのは、貴族として品のない行いではありませんか?」
 
 喉が震えているが、声が上擦らないようにゆっくりと言葉を紡ぎ、お腹から声を出して反論する。
 その場がしんと静まり返った。
 
 レステッリ前伯爵は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔つきになり、視線をフレイヤに向けている。
 よもや自分が批判されるなんて思ってもみなかったのだろう。
 
「な、なんだ、お前は。見たことのない顔だから、平民だろう!? 平民の癖に意見してくるなど生意気な!」

 たどたどしい声でそう言うと、レステッリ前伯爵は威嚇するようにまた咳ばらいをした。
 
「ハッ、父親のように平民の女に入れ込んで、連れまわっているのか。まったく、両親の汚らわしいところばかり寄せ集めたのだな!」
「おや、ご存じないようですね。ルアルディさんは王妃殿下や第二王子殿下に香水を献上し、王妃殿下から格別に目をかけてもらっている調香師です。もしもあなたが彼女を侮蔑する言動をとれば、王妃殿下が黙っていないでしょうね」
「――っ!」

 シルヴェリオの言葉を聞くや否や、レステッリ前伯爵の顔色が真っ青になる。
 王妃が目にかけている平民と聞くだけでそのような反応を見せるということは、王妃を恐れているようだ。

「ふ、ふん! とにかく、ヴェーラに近づくなよ!」
 
 そう言い捨てると、大股で立ち去っていった。
 嵐が去った後のような空気の中、フレイヤは張り詰めていた糸が切れたように脱力して、息を吐く。

 もしかすると、自分も罵られていたかもしれないのに、一言も言われなかったのは、シルヴェリオと王妃のおかげだ。
 害されたわけではないのに、身体の震えが止まらない。
 
「フレイさん、不快な思いをさせてすまない」
「いえ、私はなにも……それよりも、シルヴェリオ様は大丈夫ですか? あんなにも無礼な方の言葉なんて、気にしないでくださいね」

 心配になり、深い青色の目を見つめる。
 先ほどまでは感情が抜け落ちていた目に、今は光が戻っていた。
 
「心配してくれてありがとう。私も大丈夫だ。……あのお方は姉上の母方の祖父だ。毒の事件を耳にして、気が立っているのかもしれない」

 もしかしたらと思っていたが、やはりヴェーラの親戚だった。
 母方の祖父であるのなら、娘の夫を奪ったシルヴェリオの母親を許せないため、その憎悪をシルヴェリオにも向けているのだろう。

 シルヴェリオはなに一つとして、悪いことをしていないのに。

「それにしても、シルヴェリオ様はあのように言われても毅然と向き合えて、すごいですね」
「言い返したとしても耳を貸してもらえないから、黙っていることにしたんだ。それでも虚しさや、やるせなさが募っていた。……しかし、今日は違う。フレイさんが俺のために怒ってくれたから、そういった感情を感じずに済んで助かった。――ああいった貴族に物申すのは勇気がいっただろうが、声を上げてくれて、ありがとう」

 シルヴェリオはフレイヤの手を掬い取る。

「こんなにも震えているのに、声を上げてくれてくれたのだな」
「ううっ、言わないでください。震えを止めようとしても、まったく止まらなくて恥ずかしいです……」

 手を引っ込めようとしたのに、シルヴェリオは放してくれない。そのまま、フレイヤの手を自分の方へと引き寄せ――手の甲にキスをした。

「――っ」

 触れられたところにだけ宿る熱に胸が騒めき、ただ息を呑んでその様子を見守る。
 顔を上げたシルヴェリオの目と視線が交わると、次第に心臓の音が大きくなっていった。

「さあ、香水工房に行こう」
「は、はい」

 シルヴェリオの手から力が抜けた気配を感じ、ゆっくりと手を引く。まだ、手の甲が熱い。
 心臓の音が、聞こえてしまっていないだろうか。
 そのような心配をしながら、フレイヤはシルヴェリオの隣に並び、再び歩き始めた。