(シルヴェリオ様は、どうして私の髪にキスをしたのだろう?)
フレイヤは、手に持っていたスポイトを近くに置いているビーカーの中に入れる。
昼食を終えて仕事に戻ってから黙々と香水を作っていたのに、パルミロやフラウラとの会話を、ふと思い出してしまったのだ。
話題に上った、建国祭での出来事とともに。
(礼儀作法の教本には書かれていなかったことだから、どうしても気になってしまう……)
エイレーネ王国の貴族の世界では、男性が挨拶として女性の手の甲にキスをすることがある。
それは珍しいことではなく、フレイヤが昔読んだ礼儀作法の教本にも書かれていた。
しかし、髪にキスをすることについては、全く書かれていなかったはず。
もしかすると、自分が見落としていたのかもしれない。
(週末には図書館へ行って、礼儀作法の本を読み直そう)
コルティノーヴィス香水工房の副工房長として、畏れ多くも王族や貴族と交流する機会が増えた。
だから、礼儀作法を把握して粗相のないよう備えておきたい。
(社交辞令でしてくれたことなのに、意識してしまうなんて……)
無意識のうちに、フレイヤは自分の髪に指先で触れる。ちょうど、シルヴェリオ様の唇が触れたであろう一房に。
すると、髪に触れてきた時のシルヴェリオの眼差しや、触れられた時の感覚をまた思い出してしまう。
真っ直ぐに見つめてきた深い青色の目を胸がドキドキし始めた。
(ううっ、私ったら、また思い出すなんて……!)
フレイヤは内心悲鳴を上げた。
建国祭以来、シルヴェリオが髪にキスをしてきた時のことを、急に思い出してしまうことが何度もあるのだ。
その度に、一人で悶々としている。
(今は仕事中だから、気持ちを切り替えよう)
ひとまず心を落ち着かせようと思い、窓の外に目を向けた。
空は夕焼け色に染まっており、夜の訪れが近いことを告げている。
(もう、夕方か……)
振り向いて壁に掛かっている時計を見ると、時計の銀色の針は五時を指し示していた。
もうすぐ、シルヴェリオが仕事を終える頃だろう。
そして、仕事を終えたシルヴェリオはここにやって来る。
今の状態でシルヴェリオと顔を合わせると、また顔に熱が宿ってしまう気がした。
そんな顔を、シルヴェリオに見せたくない。
(シルヴェリオ様が来る前に、平常心を取り戻さないと……!)
フレイヤは自分の手のひら甲を頬に押し当て、頬の熱を冷ます。
小さく息を吐き、心を落ち着かせようとした、その時。
調香室の扉を叩く音がして、フレイヤの心臓は大きく跳ねた。
「ど、どうぞ」
返事をすると、扉が開き――シルヴェリオが中に入ってきた。
(い、いつもより早い……!)
もう少し猶予があるとばかり思っていたフレイヤにとっては、完全に不意打ちだった。
焦りのせいか、さらに心臓が駆け足になる。
頬の熱も、再び上昇しているような気がした。
「シルヴェリオ様、お疲れ様です」
「ああ、フレイさんも、お疲れ様」
シルヴェリオはフレイヤがいる調香台まで歩み寄って来る。
そして、身に纏う黒色のジャケットのポケットから、一枚の紙を取り出すと、フレイヤに差し出してきた。
「フレイさん、姉上から、魔獣の革を鞣す際に使用する魔法薬の材料について教えてもらった。この紙に書かれているものが調合されている」
「あ、ありがとうございます」
フレイヤは慌てて紙に視線を落とすようにして、目を逸らした。
まだ意識してしまうせいで、変な顔をしているような気がして、不安なのだ。
「魔法薬の材料は、一角雪鹿の角の粉末と、星灯りの花と、精霊の髭に、満月の光を一晩中浴びた聖水……苦みのある香りの正体は、精霊の髭のようですね」
一角雪鹿とは、エイレーネ王国の最北にある森に住む魔獣だ。
通常の鹿より一回り大きく、雪のような体毛に覆われており、雄も雌も銀色の大きな角を額に生やしている。
その角は、攻撃魔法を無効化する力があるのだ。
また、星灯りの花は星のような形をしており、ほんのりと金色の光をやどした魔法植物だ。
調合に使われるのは、ヨモギに似た形の葉で、すりつぶして他の材料と一緒に調合することで、材料の効能を高めてくれる。
精霊の髭とは、銀色の細い草だ。
空気が綺麗で、魔力が豊富な土壌の森の奥地に生えており、葉は籠を作る際の材料に、根は魔力の暴走を引き起こした際に服用するための鎮静剤に使用される。
その根から、苦みのある臭いがするのだ。
薬師ではない限りその香りを知る者は少ないが、実家が薬草雑貨店であるフレイヤは、店で取り扱っているため馴染みがある。
「精霊の髭に香りがあるのか?」
「はい。植物は、使用する部位によって香りが異なることがあるんです。精霊の髭の根からは、苦みのある香りがするのですよ」
精霊の髭だけではない。名前が異なる精油が、実は同じ植物から作られているということもあるのだ。
「本来であれば門外不出の材料を教えてくださるなんて、とてもありがたいです。コルティノーヴィス伯爵と職人の方に、お礼を伝えていただけますか?」
「わかった。俺から姉上に伝えておく。職人たちには、姉上を通して伝えてもらおう」
「ありがとうございます」
礼を言うために顔を上げると、再びシルヴェリオと視線が交わる。
シルヴェリオは、建国祭でも見た、花が咲き綻ぶような美しい笑みを浮かべている。
その表情を見ると、フレイヤは魅入られたように固まってしまった。
「フレイさん?」
シルヴェリオが、首を傾げて尋ねてくる。
名前を呼ばれて初めて、自分がシルヴェリオをじっと見つめていたことに気付いたフレイヤは、気まずくなり、また視線を外す。
「あ、あの……今日の体調は、いかがでしょうか?」
「心配してくれて、ありがとう。昨夜はフレイさんから前に貰った香り水を使ったから、よく眠れた」
「そうでしたか。お役に立てて、嬉しいです」
「フレイさんには、いつも助けられているよ」
「……そんなこと、ないです」
フレイヤは自分自身でも驚くほど、自信のない声で答えた。
だって、シルヴェリオが今抱えている問題を、解決する手助けができないのだ。
自分はいつも、シルヴェリオに助けられているというのに。
「なにか困っていることがあったら、相談してくださいね。あ、あの、私には、それほど力があるわけではないのですが……シルヴェリオ様が困っていたら、力になりたいです」
「フレイさん……」
シルヴェリオは大きく目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「フレイさんはそばにいてくれるだけでも、十分助けてくれている」
「そ、そうなのですか?」
「ああ――そういえば、今日の菓子を持ってきたから、受け取ってくれるか? 匂いがこの部屋に充満してはいけないと思い、休憩室に置いているのだが……」
「ぜひ! 今すぐ受け取ります!」
フレイヤが元気な声で返事をすると、シルヴェリオがくつくつと笑う。
口元を抑えて耐えているようだが、肩が震えているから、隠しきれていない。
「やっぱり、フレイさんには元気を貰ってばかりだな」
「元気を貰うというより、面白がっていませんか?」
フレイヤが不服そうに抗議すると、シルヴェリオは申し訳なさそうに「すまない」と口にする。
その様子を見たフレイヤは、パルミロの言葉を思い出す。
『きっと、シルはフレイちゃんのいつも通りの姿を見て元気を取り戻しているのだろうからな』
もしもパルミロの言葉通り、今のシルヴェリオが元気を取り戻してくれているのであれば――これ以上は、抗議しないでいようと思うフレイヤだった。
フレイヤは、手に持っていたスポイトを近くに置いているビーカーの中に入れる。
昼食を終えて仕事に戻ってから黙々と香水を作っていたのに、パルミロやフラウラとの会話を、ふと思い出してしまったのだ。
話題に上った、建国祭での出来事とともに。
(礼儀作法の教本には書かれていなかったことだから、どうしても気になってしまう……)
エイレーネ王国の貴族の世界では、男性が挨拶として女性の手の甲にキスをすることがある。
それは珍しいことではなく、フレイヤが昔読んだ礼儀作法の教本にも書かれていた。
しかし、髪にキスをすることについては、全く書かれていなかったはず。
もしかすると、自分が見落としていたのかもしれない。
(週末には図書館へ行って、礼儀作法の本を読み直そう)
コルティノーヴィス香水工房の副工房長として、畏れ多くも王族や貴族と交流する機会が増えた。
だから、礼儀作法を把握して粗相のないよう備えておきたい。
(社交辞令でしてくれたことなのに、意識してしまうなんて……)
無意識のうちに、フレイヤは自分の髪に指先で触れる。ちょうど、シルヴェリオ様の唇が触れたであろう一房に。
すると、髪に触れてきた時のシルヴェリオの眼差しや、触れられた時の感覚をまた思い出してしまう。
真っ直ぐに見つめてきた深い青色の目を胸がドキドキし始めた。
(ううっ、私ったら、また思い出すなんて……!)
フレイヤは内心悲鳴を上げた。
建国祭以来、シルヴェリオが髪にキスをしてきた時のことを、急に思い出してしまうことが何度もあるのだ。
その度に、一人で悶々としている。
(今は仕事中だから、気持ちを切り替えよう)
ひとまず心を落ち着かせようと思い、窓の外に目を向けた。
空は夕焼け色に染まっており、夜の訪れが近いことを告げている。
(もう、夕方か……)
振り向いて壁に掛かっている時計を見ると、時計の銀色の針は五時を指し示していた。
もうすぐ、シルヴェリオが仕事を終える頃だろう。
そして、仕事を終えたシルヴェリオはここにやって来る。
今の状態でシルヴェリオと顔を合わせると、また顔に熱が宿ってしまう気がした。
そんな顔を、シルヴェリオに見せたくない。
(シルヴェリオ様が来る前に、平常心を取り戻さないと……!)
フレイヤは自分の手のひら甲を頬に押し当て、頬の熱を冷ます。
小さく息を吐き、心を落ち着かせようとした、その時。
調香室の扉を叩く音がして、フレイヤの心臓は大きく跳ねた。
「ど、どうぞ」
返事をすると、扉が開き――シルヴェリオが中に入ってきた。
(い、いつもより早い……!)
もう少し猶予があるとばかり思っていたフレイヤにとっては、完全に不意打ちだった。
焦りのせいか、さらに心臓が駆け足になる。
頬の熱も、再び上昇しているような気がした。
「シルヴェリオ様、お疲れ様です」
「ああ、フレイさんも、お疲れ様」
シルヴェリオはフレイヤがいる調香台まで歩み寄って来る。
そして、身に纏う黒色のジャケットのポケットから、一枚の紙を取り出すと、フレイヤに差し出してきた。
「フレイさん、姉上から、魔獣の革を鞣す際に使用する魔法薬の材料について教えてもらった。この紙に書かれているものが調合されている」
「あ、ありがとうございます」
フレイヤは慌てて紙に視線を落とすようにして、目を逸らした。
まだ意識してしまうせいで、変な顔をしているような気がして、不安なのだ。
「魔法薬の材料は、一角雪鹿の角の粉末と、星灯りの花と、精霊の髭に、満月の光を一晩中浴びた聖水……苦みのある香りの正体は、精霊の髭のようですね」
一角雪鹿とは、エイレーネ王国の最北にある森に住む魔獣だ。
通常の鹿より一回り大きく、雪のような体毛に覆われており、雄も雌も銀色の大きな角を額に生やしている。
その角は、攻撃魔法を無効化する力があるのだ。
また、星灯りの花は星のような形をしており、ほんのりと金色の光をやどした魔法植物だ。
調合に使われるのは、ヨモギに似た形の葉で、すりつぶして他の材料と一緒に調合することで、材料の効能を高めてくれる。
精霊の髭とは、銀色の細い草だ。
空気が綺麗で、魔力が豊富な土壌の森の奥地に生えており、葉は籠を作る際の材料に、根は魔力の暴走を引き起こした際に服用するための鎮静剤に使用される。
その根から、苦みのある臭いがするのだ。
薬師ではない限りその香りを知る者は少ないが、実家が薬草雑貨店であるフレイヤは、店で取り扱っているため馴染みがある。
「精霊の髭に香りがあるのか?」
「はい。植物は、使用する部位によって香りが異なることがあるんです。精霊の髭の根からは、苦みのある香りがするのですよ」
精霊の髭だけではない。名前が異なる精油が、実は同じ植物から作られているということもあるのだ。
「本来であれば門外不出の材料を教えてくださるなんて、とてもありがたいです。コルティノーヴィス伯爵と職人の方に、お礼を伝えていただけますか?」
「わかった。俺から姉上に伝えておく。職人たちには、姉上を通して伝えてもらおう」
「ありがとうございます」
礼を言うために顔を上げると、再びシルヴェリオと視線が交わる。
シルヴェリオは、建国祭でも見た、花が咲き綻ぶような美しい笑みを浮かべている。
その表情を見ると、フレイヤは魅入られたように固まってしまった。
「フレイさん?」
シルヴェリオが、首を傾げて尋ねてくる。
名前を呼ばれて初めて、自分がシルヴェリオをじっと見つめていたことに気付いたフレイヤは、気まずくなり、また視線を外す。
「あ、あの……今日の体調は、いかがでしょうか?」
「心配してくれて、ありがとう。昨夜はフレイさんから前に貰った香り水を使ったから、よく眠れた」
「そうでしたか。お役に立てて、嬉しいです」
「フレイさんには、いつも助けられているよ」
「……そんなこと、ないです」
フレイヤは自分自身でも驚くほど、自信のない声で答えた。
だって、シルヴェリオが今抱えている問題を、解決する手助けができないのだ。
自分はいつも、シルヴェリオに助けられているというのに。
「なにか困っていることがあったら、相談してくださいね。あ、あの、私には、それほど力があるわけではないのですが……シルヴェリオ様が困っていたら、力になりたいです」
「フレイさん……」
シルヴェリオは大きく目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「フレイさんはそばにいてくれるだけでも、十分助けてくれている」
「そ、そうなのですか?」
「ああ――そういえば、今日の菓子を持ってきたから、受け取ってくれるか? 匂いがこの部屋に充満してはいけないと思い、休憩室に置いているのだが……」
「ぜひ! 今すぐ受け取ります!」
フレイヤが元気な声で返事をすると、シルヴェリオがくつくつと笑う。
口元を抑えて耐えているようだが、肩が震えているから、隠しきれていない。
「やっぱり、フレイさんには元気を貰ってばかりだな」
「元気を貰うというより、面白がっていませんか?」
フレイヤが不服そうに抗議すると、シルヴェリオは申し訳なさそうに「すまない」と口にする。
その様子を見たフレイヤは、パルミロの言葉を思い出す。
『きっと、シルはフレイちゃんのいつも通りの姿を見て元気を取り戻しているのだろうからな』
もしもパルミロの言葉通り、今のシルヴェリオが元気を取り戻してくれているのであれば――これ以上は、抗議しないでいようと思うフレイヤだった。


