「──っ!」

 息を呑むように勢いよく目覚めたときには、事のすべてが終わっていた。

 視界に映るのは見たこともないような広さを誇る豪華なホテルの寝室と、床に脱ぎ捨てられた洋服たち。

 そしてキングサイズのベッドの上で心地よさそうに眠っている……見知らぬ男性がただ一人。

 「(うわぁ、きれいな寝顔……)」

 キリッとした顔立ちに、長いまつ毛が印象的な彼。キメ細かい色素の薄い肌に、艶のある黒い髪がとても上品に映えていた。

 こんなにも整っている男性を目の前で見る機会は初めてで、思わず彼に見惚れてしまう。

 「(……って、違う。ちょっと待って? その前に、この人は誰?……ここはどこ?)」

 彼の名前は? どこで出会った?

 ──……なぜ、お互いに服を身に纏わずベッドの上で眠っていたというの?

 すでに頭は冴えているはずなのに、彼を見た瞬間、さまざまな疑問が激しい波のように押し寄せてくる。

 けれどその疑問に一切の回答を当てがうことができない私は、身動きが取れないまま視線だけをキョロキョロと何往復もさせることしかできなかった。

 必死で昨日の出来事を思い出そうとするものの、断片的な記憶しか浮かび上がってこない。

 「(昨日の夜、確か私……)」

 行きつけのバーで大量のアルコールを体内に入れて、それから──……。

 朧げな記憶をどうにか繋げて、今の状況を把握していく。

 隣に座った男の人に……声をかけた?

 ……いやいや、私が?

 二十七年という人生の中で、お酒の失敗など一度もしたことがなかった。

 記憶を失うまで飲んだことも、誰かにお持ち帰りされたこともない。ましてや一夜限りの身体の関係を持つだなんて、そんなのはドラマや小説の中でのみ起こるハプニングだとさえ思っている。

 けれど、現に私は見慣れない高そうなホテルに男の人と眠っていた。この人が誰なのか、どれだけ思い出そうとしても苗字すら分からない。

 「た、たた、大変なことしちゃった……っ」

 昨夜のことを一つずつ思い出すたびに、自分でも分かるくらいに青ざめていく。

 いよいよどうしたらいいのか分からなくなった私は、隣で眠る彼を起こさないよう、ひっそりとベッドから降りた。

 そして昨日着ていたであろう床に落ちていた服を手繰り寄せながら身につけていく。

 「……っ」

 そのとき、最後に思い出したのは、彼との昨夜の行為のこと。

 見知らぬ人との一夜。けれど不快な気持ちは愚か、これまでの人生の中で一番満たされた夜だったことだけは確かだった。

 「(大丈夫、大丈夫よ私……っ)」

 この部屋を出れば、またあの現実が待っている。

 共通の友人だったはずの女と浮気をした彼氏に、自分の機嫌さえとれないパワハラセクハラ三昧の上司。
 
 その反面、この豪華なホテルでの夜は素敵だった。大半を寝室で過ごしてしまったけれど、あんなにも愛おしそうに求められたことなど一度もなかった。

 身体の至るところから、昨夜の感触がまだ残っている。

 けれど、この部屋の扉を開けてしまえばそれももう終わり。ベッドで眠っている彼とも、今後出会うこともないだろう。

 ──……でも、それでいい。

 夢のような一夜を過ごせただけで、それだけで満足だ。

 そしてもう二度と、私は恋なんてしない。

 そう心に誓いながら、ゆっくりと重厚感のある扉を開いた。

 最後に、名前も知らない彼に『さようなら』と心の中で囁いて――。