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 秘書課の朝は、どの課よりも忙しなくはじまる。

 秘書付きの役職者達は、原則九時には出社してくるようになっているため、担当秘書はそれまでに今日一日のスケジュールを確認し、朝一番にもらわなければならない決裁書類を用意し、必要に応じて車の手配を行うなど、準備に追われながらとにかくバタつくのだ。


 「だから!今すぐこれを持参しろって言ってるんだよねぇ!」

 「……今すぐ、ですか?」

 「君は僕の言うことがきけないわけ?」

 「ですが」


 そんな中、今日も佐伯部長の怒号は例外なく鳴り響いている。

 それを受け止めるのも、また例外なく彼の担当秘書である私だ。


 「(こんな朝早くからアポもなく資料を持参するなんて、非常識にも程があるじゃない)」


 佐伯部長はここ数日、ずっと機嫌が最悪だ。

どうやら鳳間ホールディングスとの契約がうまくいっていないのだと、先日企画チームの一人からこっそりと聞かせてもらった。なんでも、彼らが手掛ける旅館の食事処は、どの大手企業に任せるでもなく、地方の農業地域と連携する方針だという噂が流れているのだという。

 もしもその噂が本当だとすれば、この企画の一切を任されている部長にはかなりの痛手となることは私も理解できる。

 だからといって、その鬱憤を私にぶつけていいはずがないじゃない。


 「つべこべ言わずに、食料サンプルの資料を渡しに行ってこい!」

 「……承知、しました」


 佐伯部長は少しでも鳳間さんに取り入ろうと、直接資料を手渡して来いと言っているけれど、ここは鳳間ホールディングスの受付に言づけてさっさと帰るのが得策だ。


 それに、心のどこかで私自身も鳳間さんと会うことを躊躇っている。

 ワンナイトの相手に不運にも接待という場で再会し、さらにそのあと二人でご飯を食べに行くことになるなんて、一体誰が想像しただろう。


 接待が終わったあの日の夜、鳳間さんは上品な鉄板焼き屋へと連れて行ってくれた。

 大将が目の前で高級な黒毛和牛を焼いて頂く一品一品が本当に美味しくて、お肉が口の中でとろけるという言葉をはじめて体感して感動したのは内緒だ。

 けれど、となりに彼がいるというだけで背筋は伸び、ぎこちない笑顔を連発させてしまっていたに違いない。


 それでも鳳間さんは終始私に何気ない話題を振り、ゆるやかな会話の進め方をしてくれた。

 おかげで嫌な空気感や沈黙が流れることはなく、むしろ場が和むにつれてちょっぴり楽しいと思えたほどだった。

 何より鳳間さんの、私に対するさりげない気遣いに泣きそうにさえなった。

 二杯目の飲み物からお店のおすすめを出してくれたり、お腹の満たされ具合を確認しながら量を調整してくれたり、あまり遅くならないようにと帰りの時間まで気にかけてくれた。

 一人の女性として、一人の人間として、まるで私だって大切にされるべき人間なのだと思わせてくれたあの心遣いに、ものすごく満たされていくのが分かった。


 「(修一くんとは、大違い……)」

 思えば、彼は一度だって私を優先してくれたことなんてあっただろうか。

 すべてが自分ファースト。休日に会う約束をしていても、会社仲間や友人達との飲み会が入ればいつだってそちらを優先するようになっていった。

 いつの間にか食べたいものや行きたい場所すべて、修一くんの意見をベースにしていくのが当たり前になって、いつだって私が合わせるようなスタイルに変わっていた。

 昔はそんな関係じゃなかったのに。

 もっと優しい人のはずだった。もっと私を愛してくれる人だった。


 「(人は、変わっちゃうんだね)」

 だからもう、私は恋なんてしないと決めた。他人に期待することもやめた。


 そんな今の私に、鳳間瑛人という存在は危険そのものでしかない。

 彼のあの甘い言葉に、心遣いに、私の決心が揺らいでしまいそうになるから。


 「ほら君!さっさと鳳間さんのところに行かないか!全く、本当に使えないねぇ!無能秘書め!」

 「……っ」


 出社してくるなり鞄を放り投げながら怒鳴り散らしている部長を見て、またグッと胃が締め付けられた。心の中で何度も『我慢だ、我慢』と唱えながら、受け取った分厚い資料を抱えて部屋を飛び出した。