藤崎くんの、『赤』が知りたい。


*****



「ここって……」

「バスケ部の部室。今日部活休みだから誰も来ないんだよね。だからここ、使っちゃお」



藤崎くんに連れてこられた場所は、体育館のバスケ部専用の更衣室だった。

教室から持ち出してきた横断幕をきれいに広げていく藤崎くん。



「ほ、本当にここ使っていいの?」

「うん、大丈夫!もし何か言われたら、男子バスケ部のエースとしてコーチに謝っとく」

「藤崎くん、エースなんだ。すごいね……」

「もしよかったら、今度他校と練習試合あるからさ。楓花ちゃん、見にきてよ」



そう言って、藤崎くんは私の目の前にそっと腰をおろした。


藤崎くんと目を合わせることができなくて、慌てて視線を下に向けてしまった。



「少しは落ち着いた?」

「……」

「無理に話そうとしなくていいからね。今はこのまま、もう少しここにいよう」



どうして藤崎くんは、今まで特別仲が良かったわけでもない私に、ここまで優しくしてくれるんだろう。

教室で一人うずくまって泣いていたあのとき、藤崎くんが声をかけてくれるまで言葉を交わしたことなんてあまりなかった。


毎日たくさんの人に囲まれて、いつもその中心にいるのが藤崎くんだった。

そんな楽しそうなグループを、端のほうから見つめるのが私だった。



一人で横断幕なんて作れるはずがないと困っていたとき、はじめてあんなふうに助けてもらった。


中学生になって、はじめて『楓花ちゃん』って呼んでもらえた。


藤崎くんの優しさに、私はもう何度も救われてきた。




「──私ね。実は『赤色』だけが見えないの」

そんな藤崎くんに、隠しごとをしたくない。

……ううん。

藤崎くんにだから、言えるのかもしれない。



「こんなこと誰にも知られたくなくて、当時一番仲が良かった友達にも秘密にしてたの」

「楓花ちゃん、無理しなくていいよ?」

「ううん、聞いて……ほしい」


首を横に振って、私はゆっくりと藤崎くんのほうを見た。


すると、彼は『分かった』とだけ言って、真剣な表情で最後まで私の話を聞いてくれた。



「小学校の先生たちはね、私の事情を知った上で黒板に赤色のチョークを使わず、大事な部分には白色で囲んで示してくれるようになったの」

「うん」

「でも、小学校四年生のとき。一人の男子が、なんでウチのクラスだけ赤色のチョークを使わないのかって先生に質問をして……」

「……」

「担任の先生も、最初はうまく誤魔化してくれてたんだと思う」



けれど、クラスのみんなが『どうして?』『なんで?』と繰り返し疑問を持つようになった。


そして、次の日から“目に病気を持っている人探し”がはじまった。


《このクラスの中に、赤色が見えない病気のヤツがいる。》


今思えば、単なる遊び半分の犯人探しだったんだと思う。


だけど、当時の私はそれが本当に怖くて仕方がなかった。

いつか私だってことがバレてしまったらどうしようって。

みんなに目のことが知られてしまったら、嫌われてしまうかもしれないって。


毎日そんな不安に襲われていたある日。


担任の先生が、道徳の授業のとき私をみんなの前に立たせて言った。


『今日は大切なおはなしがあります』

『それは蓮見さんの、目に関することです』

あのときの記憶は、もうあまり思い出せないでいる。



ただ、先生は私の目のことをみんなに話して、協力を得ようとしたんだと思う。

犯人探しをやめさせて、私の目のことをみんなに受け入れさせれば丸くおさまるって考えたのかもしれない。



だけど、先生の思いとは正反対に、私は犯人扱いされるようになった。


私に近づけば、みんなも同じように赤色が見えなくなると言われるようになった。


大事なお知らせや私に知られたくない内容を、わざと黒板に赤色のチョークを使って書かれたこともあった。




五年生になって、クラス替えが行われてからそんな噂は消えていった。

だけど、私が負った傷は──……今も消えてくれない。


いくら時が経っても人と、関わるのが怖くなるばかり。

誰かの噂話を耳にすると、全部私のことを言っているんじゃないかと思ってしまう。

今でも人にぶつかってしまうと、思わず『ごめんなさい』と口に出してしまいそうになる。



「……だからね。私はもう、横断幕は作らないほうがいいと思う」


藤崎くんに、これまでのことを全部話した。

彼は最後まで、なにも言わずにただ私の目を見て話を聞いてくれた。


それだけで、私はすごく嬉しかった。

私のために、怒ってくれた。

あの教室から、誰もいない場所へ連れてきてくれた。


藤崎くんのそんな優しさに触れて、確かに心の傷が癒えていくのが分かった。




「楓花ちゃんはさ、『赤色』にどんなイメージを持ってる?」

「え?」

話をすべて聞き終えた藤崎くんの、唐突な質問に思わず頭を傾げた。

赤色に持つ、イメージ……?

「えっと、リンゴとか、太陽が赤色なんだってことは……情報として知ってる、かな」

「うんうん、あとは?」

「あとは、熱いとか、怒り……なんかも『赤色』ってイメージかもしれない」

「なるほどね」

藤崎くんの質問の意図がまったく分からない。

けれど、次の瞬間、藤崎くんは私に横断幕で使う筆を私に渡した。


「──よし。楓花ちゃん、この筆持って?」

「え?」

「この横断幕に、今から思いっきり赤で塗り潰そ!」

「ちょっ、あの、藤崎くん?」

「もう下書きなんてどうでもいい。楓花ちゃんが持ってる赤色のイメージを全部ここにぶつけてみて!」


そう言って、藤崎くんはバレットの中に『赤色』と書かれた絵の具を思いきり出していく。

そして筆にそれを乗せて、再び私に差し出した。


「俺がいろんな色の赤をこれから作るから、楓花ちゃんはそれをひたすら思いつくままに書き殴っちゃおうよ」

「そ、そんなことできないよ!みんなに怒られるに決まってる!」

「誰にも文句なんて言わせない」

なにかの冗談なのかと思ったけれど、藤崎くんは一ミリも笑っていなかった。

そんな藤崎くんの表情を見て、私は差し出された筆をそっと受け取る。


「私、やっぱり怖い。赤色が、怖い……っ」

「……うん」

「だって真っ黒にしか見えないもん」


どれだけ目を凝らして見つめてみても、やっぱり筆先についている色は黒にしか見えない。

そのせいで、今までどれだけ怖い思いをしてきただろう。

たった一色が見えないせいで、どれだけ苦しんできたんだろう。


「私だって、普通になりたいよっ」

「……」

「私は病気なんかじゃない……!みんなとなにも変わらないのに!」


ずっと我慢してきた涙も、限界を超えて頬を伝ってこぼれ落ちてていく。

藤崎くんにこんなことを言っても、困らせてしまうだけなのに。

分かっていても、もう止めることができなかった。

服の袖で、雑に涙を拭っていく。



「見えない色に、これ以上怖がる必要なんてないよ」

「……え?」

ふわっと風がきたと思ったときには、私は藤崎くんの腕の中に抱きしめられていた。

あの安心できるあたたかさが、全身に伝わっていく。



「大丈夫だよ、楓花ちゃん。楓花ちゃんは、頑張り屋さんな普通の女の子だから」

「……ふじ、さきくん」

「だから、そんなふうに泣かないで」


そう言って、藤崎くんは私の代わりに涙をそっと拭い取ってくれる。

藤崎くんの言葉とぬくもりが、一つ一つ私の中に入っていく。


「横断幕、完成させよ」

「……うん」

「誰かの意見とか、体育祭の評価なんかどうだっていいから。楓花ちゃんの思うままに、書いてみて?」


手に持っていた筆に、力をこめた。

以前のように緊張することも、震えることももうない。

横断幕の生地の真ん中に、思いきり力を込めてひと振りした。

それを何度も何度も繰り返した。




「うわぁ、すごい」

「……」

「これ傑作だよ、楓花ちゃん!めちゃくちゃすごい!」

完成した横断幕を見て、藤崎くんが感動している。

いくら自分で書いたからとはいえ、やっぱり私には黒しか映らない。

だけど、藤崎くんがこれだけ褒めてくれているから……きっと悪くはないと思う。

「俺、これ今からクラスのみんなに自慢してくる」

「え!?だ、ダメだよ!」

「大丈夫、これ見たらみんな楓花ちゃんのこと画家だって思うよ」

「……ぷっ!アッハハ!そんなわけないよ!」


思わず大きな声で笑ってしまった。

そういえば、もう何年も声をあげて笑ったことなんてなかったかもしれない。

笑う余裕なんてなかった。

ただ日々を平凡に、何事もなく一日が終わりますようにとしか思ってこなかった。


これも全部、藤崎くんのおかげだ。

「ありがとう、藤崎くん……って、あれ?」

「……っ」

「どうしちゃったの?なんでいきなりそんな距離取るの?」


突然顔を隠すように私と距離を取る藤崎くんが心配になって、顔を覗き込む。

そうするとさらに離れようとする彼に、もしかしたら何かしてしまったのではと不安になった。


「ご、ごめん藤崎くん。私、無意識になにかしちゃった?」

「あ、いや、ううん!違う、そうじゃなくて……」

「じゃあ、どうしたの?」

「……今、俺の顔あんま見ないで?」

「どうして?」

「俺、今たぶんめちゃくちゃ顔赤くなってると思うから」


藤崎くんはそう言って、恥ずかしそうに自分の顔を両手で覆って私から隠した。

「で、でも楓花ちゃんが悪いからね!?」

「え!?なんで!?」

「いきなりそんな可愛い顔で笑った楓花ちゃんのせいだから、これ!」


そう言われて、私も途端に恥ずかしくなった。

どちらも何も言葉を発さなくなって、二人の間には沈黙が続く。

そんな様子がなんだかおかしくて、藤崎くんと目があった途端にまた一緒に笑ってしまった。

藤崎くんと笑い合いながら、ふと、『赤色が見てみたい』と思った。

それはもう、何年も前に諦めていたことだった。


『早く赤色が見えますように』

小さなころから、毎日願っていた。

だけど、その願いが叶う日はやってこない。



いつしか諦めていたことを、今ふと思ったのは……藤崎くんの『赤』が知りたかったから。

私を見て赤くなったという彼を、ちゃんとした色で見てみたかったから。

「いつか、見れたらいいなぁ」

「うん?なにか言った?」

「……ううん」

だけど、この夢はまだ秘密。

今はまだ、私の心の中に閉じ込めておこう。

いつか、この気持ちを言葉にして言えるようになる……その日まで。