一時間後。そう啖呵(たんか)を切ったのにもかかわらず、吐息をたてながら俺に体を預けるメイベル嬢。
 こういうところも含めて、可愛いと思う。が、長い道中、このままの体勢はキツいだろう。

 俺はそう思い、メイベル嬢の体を横に倒す。頭を膝に乗せて。すると、寝顔がよく見えるようになった。
 だからだろうか。あの警戒心の塊のような幼子だったメイベル嬢の姿と重なる。あの時は抱っこさせてもらえなかったが、今なら……。

 一瞬、過った考えを払うように、俺は頭を横に振った。

「さすがにここで暴れ出されたら困るな」

 最悪、機嫌を損ねられた挙句、帰るとまで言われたら、元も子もない。ようやくここまで漕ぎつけたというのに。逃げられたら、もう二度と手に入らないだろう。
 俺自身も立ち直れるかどうかも、怪しいところだ。

 だから、頬に触れたい衝動を必死に抑えた。髪を撫で、その一房を掴む行為も。

「今はただ、この寝顔を見られただけでもよしとしよう」

 十三年前を思えば、十分過ぎるほどのことなのだから。

 そもそも、メイベル嬢が公爵令嬢でなければ、そんな早い時期から求婚書など送りはしなかった。身分が高ければ高いほど、貴族の婚約は早い。
 だから先に、形だけでもしておきたかったのだ。

「どうしても、手に入れたかったんだ」

 今は閉じている、その青い瞳をしたメイベル嬢を。


 ***


「これは、どういうことなのでしょうか」

 馬車の扉が開けられたのと同時に、怒気の孕んだサミーの声が俺に向けられる。

 無理もない。道中、何事もなく馬車は、休憩場所に辿り着いたというのに、一向に扉を開けないこと。それに気づいたサミーに向かって、窓から指示したこと、など。
 先に不審な要素を植え付けてしまったのが原因だった。

 加えて、馬車の中で眠るメイベル嬢の姿。これをトドメと言わずして何と言えようか。

「お答えください、エヴァレット辺境伯様」
「そう、怒るな。メイベル嬢が目を覚ましたらどうする」

 専属メイドなら分かるだろう、と暗に言うと、我に返ったらしい。視線をメイベル嬢に移した。

「慣れない馬車での移動に疲れたんだろう。寝ても構わないとは言ったが、やはりな。寝ないように頑張っていたようだが」

 馬車の揺れも相まって、眠りに落ちた。なだらかな道が続いたせいだろう。あれから一度も、大きく揺れることはなかった。

「そうでしたか。申し訳ございません。冷静に考えれば分かることでしたのに。お嬢様はその……」
「遠出をするほどの外出は、あまりしない。エルバートから聞いているから大丈夫だ」
「重ね重ね、失礼致しました。けれど、いくらエヴァレット辺境伯様でも、長時間は疲れるのではありませんか? お食事の間だけでも変わります」

 俺は馬車の中に入ろうとするサミーを、手で制止した。

「いや、このままで構わない。代わりに、この状態でも食べられる物を頼む。もしかしたら、匂いにつられて、メイベル嬢も起きるかもしれない」
「分かりました。けれど、くれぐれも寝ているお嬢様の扱いには気をつけてください。いくらエヴァレット辺境伯様でも危ないですから」
「……あぁ。肝に銘じておこう」

 一応、エルバートから詳細は聞いている。が、実際に目の当たりにすると、緊張感の方が勝っていた。無論、何もしない、という意味でも。

 普段はふかふかの枕で熟睡しているからなのか、時折、不満そうに「ん~」と唸ることがある。その度に、柔らかいクッションを、馬車に積まなかったことを後悔させられる。

「やはり、俺の硬い膝では、な」

 夏とはいえ、主人を外気に晒したくないサミーの行為で、馬車の中は再び密室となる。いや、辺境の地へと向かうこの集団は、御者や護衛なども含めて、男が多いせいだろう。

 このような姿のメイベル嬢を見せるわけにはいかない。無論、俺も同じなだけに、少しだけメイベル嬢の気持ちが理解できた。

「色々、俺に対して思うことはあるだろうが、確かに頼りになる者のようだな」
「それはお褒めに預かり、ありがとうございます」

 さすがはブレイズ公爵家のメイド。メイベル嬢を起こさないように配慮したのだろう。物音も立てずに扉を開けた。
 さらにバスケットを反対側の座席に置いたかと思えば、さも当然かのような仕草で乗り込んでくる。そんなところも含めて感心せざるを得なかった。

 サミーはバスケットの横に座ると、中から薄い布を取り出して、メイベル嬢にかける。

「クッションも、と思ったのですが、やめておきました」
「何故だ? この状況に不満があったように見えたんだが」
「奥様から、事の経緯を聞いたんです。私がお嬢様と辺境伯領に行くことになった日に」

 眠っているとはいえ、メイベル嬢がいるからか、明確に“何を”とは言わなかった。けれど、おおよその見当はつく。

 十三年前から送り続けていた、求婚書のことを言っているのだろう。当時五歳の少女への求婚。八年、という年齢差。普通の感覚からすれば、気持ち悪いと思うだろう。
 当時の俺はそれどころではなかったため、気にしなかった。が、客観的に見れば、そう感じざるを得ないのも理解できた。

「ならば、俺のことを軽蔑したのではないか」
「いえ、そのようなことは」
「無理をしなくていい。ずっとメイベル嬢の世話をしてきたのだと、エルバートから聞いている。だからこそ、付いてきてもらったのだからな」

 厳密にはメイベル嬢からの頼みだが、なければ進言するつもりだった。何せ、寝起きが悪い。扱いを間違えれば、こっちの使用人たちもただでは済まないだろう。
 あのバードランド皇子も被害に遭ったくらいなのだから、な。

 思わず、心の中で苦笑した。

「それは光栄です。お嬢様だけでなく、エヴァレット辺境伯様にまで、とは。メイド冥利に尽きると言うものです。無理など、滅相もありません」

 サミーはそういうと、バスケットから包みを取り出し、中に入っていたサンドイッチを俺に手渡す。包みのままでは開く時、メイベル嬢に当たってしまうからだ。

「ならば一つ、聞いてもいいだろうか」
「はい。私でお答えできる範囲でよろしければ」
「構わない。メイベル嬢がこの状態で起きた場合、どう反応すると思う?」
「そうですね。恐らく、飛び起きてしまうかもしれません。顔を真っ赤にして」

 ふふふっ、と想像でもしたのか、サミーは愛おしそうに微笑んだ。勿論、視線をメイベル嬢に向けて。
 しかし俺は、真逆のことを想像していた。

「仮にそれが移動中だとしたら、危険だな」
「はい。ですからその時は、しっかりとお嬢様を捕まえていただけますか、エヴァレット辺境伯様」
「っ! 言われずとも」

 俺の返事に満足したのか、サミーはそっと馬車を降りる。その姿は、出発時に俺を睨んだ人物とは思えない。それどころかまるで、別人のように見えた。

 けれど、メイベル嬢の言う通り、何が一番大事なのかを明確にしている分、信用に値できる人物だとも言える。
 そう確信できたのは、それから三時間後のことだった。

 馬車の中で目を覚ましたメイベル嬢は、まさにサミーの言葉通りの反応を示したからだ。