鏡と前世と夜桜の恋

その瞬間おすずの顔が醜く歪んだ。

「分からない子だねぇ…嫌いだよ。大嫌いだよ、言う事を聞かない小娘は!!きィィィィィイイイイイイイイイ!!!!」

叫ぶように、吠えるように、喉の奥から出た声はまるで獣の奇声… その狂気に触れた瞬間、雪美の背筋を冷たいものが一気に這い上がってくる。


な、なんなのこの人… 正気じゃない。

恐怖が雪美の身体を支配し、頭で考えるよりも先に足が動いた。雪美は広間から飛び出し屋敷の長い廊下を転びそうになりながら駆け抜けた。

赤い絨毯の色が遠ざかるたび、胸の恐怖だけが強くなる… 家まで息が切れても喉が痛んでも雪美は全速力で走り続けた。


手を引かなきゃ、さくも鈴香ちゃんみたいに… 家に辿り着いた雪美は、着物の袖を握りしめたまま玄関に倒れ込むようにして座り込んだ。

足は震え、呼吸は浅い。頬の痛みはまだ熱を持ち涙がとめどなく溢れてくる。

なんで…
なんで…

母の声も、家の灯りも、今の雪美には音も光も感じられなかった。


雪美の頭の内側では、おすずの奇声とあの言葉だけが反響し続ける。

" 咲夜さんがどうなってもいいんだね? "

胸を鷲掴みにされるような恐怖が、じわじわと心臓を締め上げると同時に雪美の脳裏に、蓮稀と咲夜が牢屋敷から出てきたあの日の光景が浮かんだ。

蓮稀の袖の黒い染み、咲夜の荒れた呼吸…


2人共、何があったのかまでは雪美に話そうとはしなかった。

“ あの時、話せない理由があったんだ… ”

震える唇で雪美は小さく呟いた。

徐々に、点と点がつながっていく。

その線はどす黒く逃げられない形をしていたと理解した瞬間… 身体の血が逆流するような寒気が背骨を走った。

「…っ」


雪美は両腕で自分を抱きしめる。

小さく震える肩を夜風が静かに撫でていく… 陽菜がお願いしたんだ、おすずさんにさくとの仲を…

その考えに至った途端、部屋の静寂がまるで誰かが息を潜めているように思えた。

障子の向こう、祖母の古い箪笥、軋む床板の音すら全てが不気味に響く。


雪美はゆっくり窓の方を向いた

外は春の終わりの夜。遠くから祭りの太鼓が風に乗って聞こえてくる… その音は不思議と心を落ち着かせてはくれなかった。

“ 逆らってはいけない ”

喉の奥で生まれたばかりの声が言った。

雪美は拳を強く握りしめた
まだまだ震えは止まらない


けれどその震えの奥には確かなものが一つ、雪美の中に芽生えていた…

恐怖ではなく『 覚悟 』 が。

「私がさくを守る… 」

外の暗闇の向こうで確かに誰かが見ている気配がした。

おすずの気配なのか、おすずの手下なのか、あるいは単なる雪美の恐怖の産物なのかわからない…


今日から私はもう
“ 泣き虫の子ども ”じゃない。

… さくは私が守る、絶対に。

そう胸に刻みながら雪美は灯りを全部消し、暗闇の中で小さく息を潜め… その夜、一睡も出来ず朝を迎えた。