鏡と前世と夜桜の恋


陽菜は立ち上がる。

「… 今日は疲れたから先に休むね」

それだけ言うと、奥の間へ消えていった。

静かだった。

静かすぎた。

咲夜はその場から動けない。

あれほど狂ったように執着していた女が、こんなにもあっさり受け入れるはずがない。

何かある…



絶対何かを隠している。

背筋を嫌な汗が伝う。

しかし、その正体までは分からなかった。

咲夜は屋敷を出ると、人目を避けてゆりねを呼び出した。

ほどなくして現れたゆりねは、咲夜の険しい表情を見るなり顔色を変える。

「何かあったんですか!?」

「頼みがある」







咲夜は周囲を見渡し、誰もいないことを確かめる。

「ゆきに伝えてほしい」

「… 雪美様に?」

「伝言は一つだけでいい」

咲夜は強く拳を握り締めた。

最後に… これがもう本当に最後、雪美ならそれだけで分かる、必ず来てくれる。

そう信じたかった。



“ 桜が綺麗な川沿いのあの場所 ”

それだけ告げると、咲夜は黙り込む… ゆりねは一瞬目を丸くしたが、やがて真剣な表情で頷いた。

「必ず、お伝えします」

ゆりねが駆け去る姿を見送りながら、咲夜は夕焼けに染まる空を見上げた。

—— 急がなければ。

陽菜が何を企んでいるのか分からない。



あの不気味な笑みだけは脳裏から離れない。

胸騒ぎが止まらなかった。

まるで、すべてが陽菜の思い描いた筋書きの上で動いているかのように…

咲夜は知らない。

陽菜が夜ごと指折り数えていたことを。

「一日… 」

ぽつり、と誰もいない部屋で呟く。

「二日… 」



机の上には、赤い印が付けられた小さな暦… 陽菜はそこへ今日も静かに印を付ける。

そして自分の下腹部へ、愛おしそうに手を重ねた。

「… まだ来ないなぁ」

その言葉とともに、嬉しそうに口元がゆっくりと歪む。

「これで、咲夜さんは帰ってくる」







誰に聞かせるでもなく呟く声は、恋する娘のように甘かった。

「絶対逃がさないから… 」

陽菜の笑顔は狂気そのものだった。