紅色に染まる頃

「お疲れ。ありがとな、今日は。急に呼び出して悪かった」
「ううん、私も暇だったから平気」
「そっか。何飲む?いつものでいい?」
「うん、ありがとう」

演奏を終えたピアニストがカーディガンを羽織ってカウンターの中央席に座り、バーテンダーと親し気に話し始めたのを、伊織はなんとなく聞き流していた。

(この女性の声、どこかで聞いたような?)

そう思いつつグラスを傾けて飲み干した伊織は、2杯目をオーダーしようかと顔を上げた。

「はい、美紅。モスコミュール」
「ありがとう」

バーテンダーの言葉に、伊織は驚いてピアニストを見る。

(え?!もしかして、小笠原家の令嬢?)

まじまじと横顔を見つめると、確かに似ている。

だが、振り袖の時とは明らかに雰囲気が違うし、何より話し方も別人のようだ。

(たまたま同じ名前で、顔も声も似ているだけか?)

その可能性は低いと思いつつ、やはり同一人物だとは信じられない。

(でもそうか。きっとこのバーテンダーとは恋人同士で、だから口調も違うのかも)

伊織は前を向いたまま、耳だけで二人の様子をうかがう。

「しかし久しぶりに聴いたわ、美紅のピアノ。全然衰えてないな」
「そんなことないわよ。弾きながら愕然としちゃった。全然思うように指が動かなくて」
「お前、マンションに引っ越してから全く弾いてないんだろ?ここで良ければいつでも弾きに来いよ」
「本当に?」
「ああ。また今夜みたいに営業中に弾いてくれると助かる」
「なあに?それが目的?」
「ばれたか」

二人は楽しそうに笑い合っている。

(やっぱりあの令嬢なのか?恋人の前だとこんなに普通なんだな。そう言えばお見合いを嫌がっていたみたいだったし。なるほど、そういう訳か)

それにしても、いくら装いが違うからといって、こんなに印象が変わるものなのか。

いや、それ程彼女にとってこの恋人の存在は大きいのだろう。

真剣にあれこれ考えていると、いつの間にか近くに来ていたバーテンダーに声をかけられた。

「お客様。何か2杯目をお作りしましょうか?」
「あ、いえ。今夜はこれで。チェックをお願いします」
「かしこまりました」

伊織が差し出したクレジットカードを手にバーテンダーがレジへ向かいかけた時、彼女が、さてと!と立ち上がった。

「ごちそうさまでした。そろそろ帰るわね」
「ああ。気をつけてな」
「ええ、おやすみなさい」

笑顔を残して軽やかに去っていった。