「サンターニュです」

 辺境伯領は王都から遠く、その中の小さな村など知られていないと思っていた。

 出自を明かした時に村の名を口にしなかったのはそのためである。

 しかしサンターニュの名を聞いた途端、夫が目を見開いて痛いほどに両肩を掴んできた。

(ど、どうしたの!?)

 驚いてなにも言えずにいると、さっきよりもまじまじと確認するように顔を見られた。

「成長すれば君のような顔立ちになりそうだ。目も髪の色も、母親とふたり暮らしだったところまで同じだ。そうなのか? それとも、俺の願望がまさかと思わせているだけなのか?」

 なにを言われているのかまったくわからないが、アドルディオンは切羽詰まった顔をしていた。戸惑う妻を前に、真剣な目をして喉仏を上下させる。

「パトリシア、君は過去に俺に会っていないか? 九歳の時だ。よく思い出してくれ」

 会ったと言われるのを待っているような期待の目で見られても、少しも思いあたらない。

(九歳ということは九年前。小さな村に王族が訪れたらお祭り騒ぎになると思うけど、そんなことはなかったはず。殿下はお忍びでサンターニュに?)

 大自然と労働と、母とのささやかで幸せな暮らし。

 振り返っても村での思い出の中に、美々しく気品ある少年はいない。

「お会いしていませんが……」

 困惑しながら答えると、アドルディオンが落胆したように息をついた。

「名が違うというのに、なにを期待しているんだ。バカなことを聞いた。忘れてくれ」

(名が違うって、誰と?)

 問いかけたかったが、十五時を過ぎた柱時計に目を遣った彼が立ち上がった。

「政務に戻る。疲れただろう。君は私室で休んでくれ」

「あの……行ってしまった」

(殿下が過去に出会った九歳の少女が、私に似ているということ?)

 しかしサンターニュ村には同じ年の女の子はいなかった。

 九年も前なので殿下の記憶違いだろうかと首を傾げ、閉められたドアを見つめていた。