「えっ、あのっはくしゃ」

「少しだけ、このままで」

 ベロニカの言葉を遮って、小さな声で伯爵はそう囁く。

「今だけは、名前で呼んで欲しい」

 普段なら不敬罪に問われたら困るとか。
 王家に莫大な慰謝料を請求されても払えないとか。
 のらりくらりとそんな事を言っていくら強請っても恋人らしい事なんてほとんどしてくれない伯爵に耳元でそう言われベロニカの心臓が痛いほどに早くなり、胸の奥がきゅっと甘くうずく。
 ベロニカはおずおずと伯爵の背中に手を回し、

「キース」

 ぎゅっと抱きしめ返し、彼の名前で呼ぶ。

「キースはいっぱい、頑張ってますよ」

「うん」

「でも、一人で全部抱えて頑張り過ぎないでください。キースが倒れたら泣いちゃう人、沢山いますから」

 私がその筆頭ですとベロニカは優しい声で伯爵に囁く。

「私はキースの事が大好きです。きっと、ずっと、永遠に」

 ベロニカのそんな言葉を聞きながら、伯爵は彼女を抱きしめる腕に少し力を込める。

「……渡したくないなぁ」

 そんな事をつぶやいて、伯爵はベロニカの肩に頭を預ける。

「え?」

 小さく聞き返すベロニカに、

「祝福と呪い。それはきっと表裏一体なんだ。薬が毒と紙一重であるように」

 伯爵は以前ベロニカから聞いた最後の純血種である魔女がこの国にもたらしたものを口にする。
『祝福』と『呪い』
 それがこの国の王家の、そして呪われた血のはじまり。
 それ以来ずっと続く、最後の純血種の魔女との血の約束。

「ベロニカはきっと病んでいるこの国にとって特効薬になれるんだろう」

 今まで音沙汰なかったくせに、最近になってベロニカに接触するようになったこの国の第7王子レグルの事を思い浮かべる。
 彼は現王を引きずり下ろす反逆を企てている。レグルはおそらく次代の王にベロニカを立てる気だ。
 呪われ姫を調べる過程で知った王家の歴史。呪い子が現れる代の王の政治は大抵碌でもなくて国が荒れている。
 王の子が沢山存在し、王子と名乗って入れ替わることも容易で、嘘つきだらけ。そんな王家の中で13番目の呪われ姫だけが、誰の目にも明らかに確実にスタンフォード王家の血を引いていることを証明できる。
 正統な継承者。それは悪政を終わらせられる国の特効薬。

「だとしても、俺はあなたを」

「なら、渡さないでください」

 伯爵の言葉を遮って、

「私は"国"よりも"伯爵"を癒せる特効薬になりたいです」

 ベロニカはキッパリとそう言う。

「それに暗殺者がターゲットを譲るだなんて、そんな間抜けな話はないでしょう?」

 ベロニカは鈴の鳴るような声でクスッと笑い、

「殺されるなら、伯爵がいい。あなたは私が選んだ、私の専属暗殺者です。そんなわけで手放してあげる気はさらさらありませんので、ご承知くださいね」

 楽しげな口調でそういった。
 少し体を離した伯爵は、揺らぐ事のない金色の目を見つめた後、

「知ってる」

 そう言ってベロニカの額にキスを落とした。

「元気出た」

 そう言ってベロニカを解放した伯爵は、そろそろ戻りましょうかとベロニカに手を差し出す。

「ふ、普通、こういうとき恋人同士は唇にしません!?」

 耳まで紅く染まったベロニカがそう抗議の声を上げつつ、伯爵の手を取る。

「未成年が何を言っているんですか」

「成人したら、手を出してくれるんですか?」

「いえ? 残念ながら、当家には王家に慰謝料請求されても払える財力がありませんので」

 いつも通りの淡々とした口調で揶揄うようにそう返す伯爵に、もうっとベロニカは頬を膨らませる。

「まぁ、でもそうですね」

 伯爵は夜空を見上げ、

「"今夜は月が綺麗ですね"とだけ、お伝えしておきます。続きは未定ですが」

 内緒ですよと、人差し指を唇にあて不敵に笑う。その言葉は、貴族間では定番の口説き文句。

「伯爵っ、ずるい。それはずるいです!」

 熱の引かない顔でそう言ったベロニカの手を引いて、

「ハイハイ、何とでもおっしゃってください」

 今夜はここまでという事で、と伯爵は笑って話を切り上げる。
 もう、とやや拗ねている彼女の銀色の髪を撫でて伯爵は誓う。
 彼女だけは、王家に渡さない。
 だから、そうせずに済む方法を考える。なぜなら自分はベロニカ(呪われ姫)専属暗殺者(唯一無二)なのだから。
 そう心に決めた伯爵が特効薬(呪われ姫)を独占できるようになるのは、もう少し先の未来の話。