私は東屋で横になっていた。

今日は七月二十九日、最高気温は三十二度、現在は十時三十分。舞香や小出くんと交わした約束の日だ。
十時三十分にこの大きな公園の東屋で待ち合わせ。十一時三十分に映画館で公開中のSFアクション映画を鑑賞する予定。見終わったら遅めの昼食にしよう。その後はカラオケに行こうと決めた。
メイクはそこそこに留め、服も舞香と遊びに行く時と同じような感じにしておいた。あんまりにも気合いを入れすぎると引かれてしまうかもしれないからだ。
舞香に知られたら、もっとキメてきたほうがいいと言われるだろう。でもダメだ。小出くんにこれ以上心を傾けたくはない。結局付き合うことさえできないんだもの。どれだけオシャレを頑張ってもむなしいだけだ。
というか、舞香も小出くんも遅いなぁ……。
私は十時二十分にはここに来た。コの字型の東屋で一呼吸入れると、スマホを取り出して連絡がきてないか確認する。

〈忘れ物を取りに帰るので十分遅れます。ごめんなさい〉

舞香からは遅刻のメッセージが来ていた。〈大丈夫だよ、あわてないで来てね〉と返信しておいた。小出くんからは何もない。最低でも二十分はここにいないといけなくなったが、準備は万端だ。
ペットボトルの麦茶を含み、魔法少女の専用ステッキを思わせるミニ扇風機をオンにする。少しはまぁ色々とマシになって、ちょっとだけ横になりたくなった。
……出入り口側に頭を向ければ大丈夫でしょ。
靴を脱いで、ごろりと横になる。
蝉の声が大合唱を奏で、木漏れ日が目の端をちらちらとかする。あぁ、夏だ。
あまりの暑さに夏を呪ってしまうけど、夏は本来ならこんなにも生気に満ちあふれたものなんだ。忘れていた。私は目を閉じた。今ここだけは、ここにいるのは吸血鬼の娘じゃない。ただの関藤小夜で、この世には悪意もやるせなさも寂しさもないような、そんな不思議な感覚がした。

「関藤さん」

目を開ける。心配そうなアイスブルーの瞳が私の顔を覗いていた。

「陽くん」

私の口からはすんなりと彼の名前がこぼれた。距離を置かないと、そう思っていたはずなのに。
彼は、それはそれは嬉しそうな顔で笑った。

「うん、おはよ」

私は身体を起こしてちゃんと座った。靴も履き直した。テーブルをはさんで、高めの身長に小さめの顔が目に入った。

「舞香からのメッセージ、見た?」
「うん、遅刻するって」
「後……五分くらいか」
「そうだね、そのくらい」

妙にソワソワしている様子に、私は少しだけ、いやこれは百パーセント“くる”だろうなと身構えた。

「来週とか、空いてる? 二人で出かけたい」

白い頬が赤いのは、熱のせいではないのだろう。そのくらいわかる。こんなベタなシチュエーションで、よほどの鈍感でなければもう絶対にわかる。
……断らなくちゃ。
断らないと、いけない。

「いいよ」

いや何言ってんだ。
自分で自分にツッコミを入れても、一度口に出してしまったらもう取り消せない。
安心と喜びが混ざりあった表情に、私はどう理屈をつけて遠ざけようかと考え始める前に、舞香が到着した。


「おめでとう!」

映画館のトイレで私は舞香に祝福された。忘れ物も実は嘘だったと告白もされた。わたしの心配返しやがれ。

「舞香、以外と策士よね……」

私ががっくり肩を落とすと、舞香はクルミのような瞳をくるんとさせた。得意気な顔が小憎たらしい。

「映画、面白かったねぇ」

のん気な声にイラッとしそうになる。でも映画は舞香の言う通り面白かった。
主人公とヒロインは敵対する勢力に所属していて、さらにヒロインには大切な婚約者がいる。主人公はそうとは知らず婚約者のみならずヒロインの家族も手にかける。ヒロインは復讐を誓うが、主人公に次第に惹かれてしまい──。

「でもラストがね……」
「うーん、本筋じゃないもんね……」

ヒロインは復讐に成功するが、主人公が息を引き取るのを見届けた後に自らも命を絶った。世界は二人のドラマなど知らぬ顔で、平和を享受し続ける。

「でもあれはあれで綺麗な終わりだったし」

敵対しあう二人にはもうそれくらいの結末しか残されていなかった。むしろハッピーエンドのような気もしてくる。
相容れない二人には、よっぽど出来た“最後”だ。

「そろそろ出よう。待たせちゃってるし」
「そうだね」

出たらエントランスホールの隅のほうで待っていてくれた。綺麗なお姉さんたちに取り囲まれている。
舞香が「小出くん!」と声をかけると、人をかき分けてこちらまで来てくれた。

「ありがとう、助かった」
「やっぱあれ逆ナン?」

私がなるべく“そっち”を見ないように囁くと、「まぁそう」と頬をかいた。

「モテるねぇ」
「珍しいだけだと思うよ」
「学校でも囲まれてるのに?」
「すぐ落ち着くって」
「照れなくていいじゃん、色男」
「違うって」

あたふたする彼を見かねたらしい舞香がパンッと手を叩いた。

「小夜ちゃん、小出くんをいじめないの! 小出くんもきっぱり断る!」
「すみませんでした……」

示しあわせたわけでもないのに声が重なる。三人とも吹き出してしまって、微妙な空気はたちどころに消えてしまった。

「お昼にしよう。どっか空いてるとこ」

舞香の言葉に、二人して同じタイミングで頷いた。


映画館から少し歩いたカフェチェーン店で食事をした。そこそこ混んではいたけれど、三人で座れる席があってよかった。舞香が「私は一人でいいから二人は別の席使いなよ」と言い出しかねない。
それでも舞香を止められないし止まらない。
具体的に言えば、お昼の後、親から塾の面談について相談があると連絡を受けた。申し訳ないけど二人でカラオケを楽しんでほしい。そう矢継ぎ早に伝えてきてさっさと帰ってしまった。
去り際に私だけに見せたウインクが、全てを物語っていた。

「行く?カラオケ」
「……そうだね」

提案を拒否できず、私たちは外に出てこれまたチェーン店のカラオケに足を運んだ。三人の時はあれだけ弾んだ会話も、二人きりだと沈黙しかない。
ここのカードを持っていた私が手続きをして、ドリンクだけを頼む。店員さんが頭を下げて出て行くと、私たちは互いに黙りこくったまま互いがどう出るかを伺っていた。
柔らかなソファ、ちり一つないテーブル、置かれたマイクにリモコン、隣りからはノリノリで歌っている声が聞こえる。めっちゃ盛りあがってるなぁ。

「何か歌おう。時間がもったいない」
「そうだね、時間……」

私入れちゃうね、とリモコンで検索して入力する。テレビ画面にタイトルが浮き出て、私はマイクをしっかり握った。

「ちょっ……まっ……マジか……?」

引きつった笑い声を背景に、私は真面目な顔で画面に目を向ける。
タイトルが消えて白抜きの歌詞が表示される。息を深く吸う。さぁ聞くがいい、渾身の──

──“般若心経”を!

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経……」
「や、もう……やめ……」

後ろでヒクヒクしている気配がする。笑いすぎて咳き込んでしまったようだ。けどそのくらいで私は止まれない。歌ってやる。歌いきってやる。……いや歌うでいいの?“あげる”が正しいような……まぁいいや。

「……般若心経」

私が歌いきって後ろを向くと息を荒げて横たわるイケメンがいた。なんだかちょっと色っぽい。
そうじゃなくて。

「……生きてる?」
「……うん」
「力抜けたよね?」
「え? うん」
「よかった。なんだか緊張してたから」
「……だからってお経はないよお経は」
「陽くんも何か歌って」

私がリモコンを手渡すと、いたずらっ子のような笑顔が向けられた。何か企んでるな。

「じゃあ俺はこれ」

画面に表われたタイトルは──これは。

「知ってる?“めざせモスクワ”」
「もすかう……」

今度は私の腹筋が試される番だった。真面目な顔で空耳の歌詞を歌い上げてくれるものだから、さっきの彼と同じようになるしかなかった。ちくしょう。
歌っている最中に店員さんが入ってきたけど、慣れているのかスルーされてしまった。それもまたツボにはまってしまって、ひたすら笑い転げていた。不審すぎる客だろうに、店員さんは何も言わず飲みものを置いて退室していった。

「………ヘイ!」

最後まで生真面目に歌った彼は、声もなく笑い転げている私の背をさする。次第に落ち着いてきた私が顔を上げると、柔らかいものが頬に当たった。
それが唇だと気づくのに、数秒かかった。

「……何でよ?」
「やだった? ごめん」
「そうじゃなくて、どうしてこのタイミングなの?」

どう考えてもそういう……切なげだとか、イチャついてたとか、そんな雰囲気じゃなかった。自分でも夢見がちなのはわかってるんだけど、こう、ドラマとか漫画みたいなキスには憧れがあるし……。
顔を伏せて思い悩む私に、彼はしゃがんで目を合わせてきた。

「……この空気なら流してもらえるかと思った」
「流してよかったの?」
「意地悪」
「卑怯者」

私は彼の額に唇を落とした。スタンプでも押すようなそれは、テクニックもへったくれもない。色気もない。
それでも、北極の氷を閉じ込めたような瞳が大きく見開かれた。それで十分だった。

「……口にはしてくれないの?」
「卑怯者にはこれで十分でしょ」

ちぇ、とちっとも残念そうではない顔でオレンジジュースをすする。喉仏が上下している。
喉がひどく乾いているのを思い出して、私もストローをくわえてアイスコーヒーを吸い上げた。血をすするよりもずっとずっと美味しかった。

それからは二人して笑顔のまま色々な曲を歌った。童謡や民謡、流行りのアイドルソングにヘビメタ、演歌も歌った。
“三年目の浮気”を入れられた時は笑いすぎて歌にならなかった。それでも楽しくてしょうがなかった。
あの時の私たちは本当にどうかしていて、たぶんお箸が転がっても笑ってしまったんじゃないかと思う。
そのくらい、笑いへのハードルが低かった。何だったんだろうあれ。

〈そういう時ってあるよね。その場限りのノリみたいな〉

家に帰ってから舞香に報告するとそう返ってきた。その場限りのノリ……ということは、あのキスもその場限りのノリってことに……。

〈小夜ちゃん、全部がその場限りのノリになるかはこれからで決まるよ〉

……舞香、実はエスパーじゃないよね。人の心が読めちゃう感じの。

〈次は二人だけで水族館デートでしょ? 気合い入れて準備しないと一生友だち以上恋人未満のままだよ〉

手厳しい忠告に私はスマホを持ち直した。そうだ。あの後デートの約束をしたんだった。それはまぁいいとして、約束の日が問題だった。
あの男が予告していた日でもあった。繁華街で一日中ナンパします! どのくらい“即”できるかカウントします! と意気揚々と宣言していた。私はそこでわざと捕まって、油断させたところでガブッといくつもりだった。
それでも約束したのは、夕方で解散すると二人で決めたからだ。対してあの男は終電まで粘るとも動画で言っていた。ハードなスケジュールになるのは承知の上で、自分で決めた。

〈チャンスの神様には前髪しかない〉
〈小夜ちゃん?〉
〈チャンスが過ぎてからつかもうとしてもつかめない。いつ巡ってくるかわからない〉

だから、全力でいくよ。
後悔はしたくなかった。いつ両親が迎えにくるかわからない状況で、悠長にこの日はデート、この日は血を吸う日、なんて言ってられない。だから。

〈そうだね、全力で気合い入れないと〉
〈舞香、服とか小物の相談させて〉
〈もちろん〉

だから、これから何があってもいい思い出として勇気をもらえるように。
私は舞香の敵討ちにも、デートにも全力を尽くす。


鏡に映る自分は、ばっちりがっつりメイクを決めていた。ビューラーで限界まで上げたまつ毛。熟れたての果物みたいな唇。気合い入れまくり盛りまくりだ。
服装もいつものとは違い、甘さの強いワンピースだ。舞香が貸してくれた。私でもお姫様みたくなれるんだなぁとどこか他人事のように思う。

「よし、完成!」

舞香が手の甲で額の汗を拭う。その姿はまるで、大作を作り上げた芸術家のようだ。私は彼女の作品第一号と言ったところか。

「ありがとう、舞香」

いや芸術家ではなくて、魔法使いのほうが正しいかもしれない。灰にまみれた薄汚い小娘を、美しく変身させる魔法使い。でも変身した娘は、ただの人間どころか人間を襲うバケモノなのだけれど。

「お礼はいいよ。私が好きでやったんだもん」
「ここまで綺麗になるなんて、思ってなかったから」
「そりゃ、元から綺麗だもん。綺麗にしかならないよ」

綺麗、か。
血にまみれたバケモノを綺麗と言ってくれるのか。
これから人の命を奪おうとするバケモノに。

「舞香」
「うん」
「いってきます」

舞香。私の大好きな友だち。
どうかこれからの人生は、どうしたって幸せなままで。
そんな祈りを込めてドアを開ける。舞香は静かに「いってらっしゃい」と応えただけだった。


水族館ってどうしてどこも青と水色と白なんだろう。
そうでないところもあるのかもしれない。でも私が知っている限りではどこもそうだ。
ついでに中は青くて暗かったりする。館内の照明は限界まで絞られて、水槽はやたらと明るい。

「魚が怯えるから」
「怯えるの?」
「魚は普段から人と接したりしないだろ? それなのに人がいっぱいいたらびっくりして隠れるんだって」
「水槽明るくして中は暗くすると見えないの?」
「見えない。マジックミラー使ってるところもあるらしい」

悠々と泳ぎ回る魚たち。私たちは無数の、大きかったり小さかったりする彼らを注視する。クロマグロ、アカシュモクザメやエイ。十数種類もの魚たちがこの水槽で暮らしている。
この水槽での暮らししか知らないというのは、一体どんな気持ちだろう。エサに困らないから幸せか、窮屈な生活で不幸せか。そもそもそんなことを考えられる知能があるかどうかは置いといて。
水槽に少しだけ映った自分の顔を見てみた。なんだかうっすら疲れているような顔をしている。舞香にも指摘されたけど、緊張のあまり眠れなかっただけだとごまかした。
本当は、血を飲んでいないからだ。
今までなら罪悪感なんてなかった。むしろ世の中のためになっているのだと傲慢にも思っていた。だけど、思い出してしまった。
最初に私の犠牲になったあのセクハラ教師には奥さんと小さな男の子がいた。家ではいい夫いいパパを演じていたようで、二人のこれからを心配する大人たちの声が無責任に響いていた。

──これからどうするのかしら、家のローンもあるんでしょ?
──子どもの教育費だって馬鹿にならないわ。
──奥さん、今まで外で働いたこともないんだって
──珍しい。パートも?
──全くだって。実家のご両親も両方とも亡くなってるから、本当に大変よ。

教員だか事務員だかがそんな噂話をしていた。その内容をことあるごとに思い出して、獲物を狩りに行こうと思えなくなってしまった。
私が襲った彼らにも、大切な存在がいて、誰かにとっても大切な存在だったのだろうか。そう考えてしまえばもう動けなくなってしまう。あの男を襲おうと決意したのだって、舞香を苦しめておきながらなんの罰も受けないのがおかしいと思ったからだ。
あの男だけは、昔誰かを助けた過去があったとしても吸い尽くす。
そう何度も決意しなければ、崩れてしまいそうで怖かった。

「……自由になりたい……」

隣りから、小さな、とても小さな声が聞こえてきた。それこそ幻聴かと疑ってしまうくらい、か細くて、頼りない声だった。

「陽くん」

私はその彫りの深めな顔に声をかけた。水槽の明かりと館内の暗さが相まって、深海に沈んでいるように見える。そこではせっかくの瞳も輝きを失って、幽霊でも目撃してしまったのではないかと思うぐらい透明な存在になっていた。
近くにいるはずなのに、遠い。

「ここの魚たちは、自由になりたいんだろうか」

私の声が聞こえているのかいないのか、そんなのはどうでもよくなるくらいの衝撃に、息が詰まった。彼の問いは私に向けているのではなくて自問自答のようではあったけど、動揺して必死に答えを脳内から弾き出す。

「その、結局魚にしかわかんないんじゃないかなぁ」

頭を抱えたくなった。なにこの裏声。上擦った声じゃなくて裏声。やってしまった。
恐る恐る隣りを盗み見ると、瞳を真摯に水槽へと向けたままだった。よかった、聞かれてない。いやこの距離だし絶対に聞かれてる。それでこの反応。……終わった。

「……そうだね。本人にしかわからない」

あ、やっぱり聞かれてた。もう消えたい。
俯いた私の耳に、バイブレーションの音が聞こえる。確認してみたけど私のスマホではない。

「ごめん、俺。ちょっと待ってて」

彼はそう言うと足早に人気のない場所へと向かった。表情がずいぶんと厳しかった。誰からだろう。
……考えても仕方ないし、私もトイレで化粧直ししよう。
フロアマップを確認しながら、トイレにゆっくりと足を運んだ。

「──だからさ──の──をさ」

足を止めた。さっきまで聞いていた声が、非常階段のほうから聞こえてくる。足音を立てないように、息を殺して少しずつ近寄る。
──何をしてるんだろう。
こんな盗み聞きをして、恥ずかしいと思わないの。
自分にそう言い聞かせても、身体は勝手に耳をすませようとする。心臓がうるさい。手のひらに汗がにじむ。

ヴァンパイアハンターとして必ず討ち取ってみせるよ。時間がかかりすぎてる? そうだね兄さんならすぐだね。でも本当にもうすぐだよ。あいつは俺にもう気を許してる。全然疑ってない。……違うよ、情が移ったりなんてしてないから。気持ち悪いこと言わないでよ。
痴漢から助けた時は周りに大勢人がいたんだよ。でも盗聴器は付けられた。今まであいつが襲った人たちのリストに痴漢と同じ会社のやつがいて助かったよ。おかげで信用させられたし。ほんと御しやすかったちょっと褒めればすぐついてくるあれでよく生きていたなもうすぐだもうすぐ杭を打ち込めるせいせいする──。

なにこれ。


私は気がついたら家のベッドで仰向けに寝ていた。電灯が目に痛い。とんでもない悪夢を見ていた気がする。
違う。あれは現実だ。
あれからどうしたっけ?
ゆっくりと起き上がる。見計らったように血の味がした。そうだ、彼が、ヴァンパイアハンターだと知ってしまった。目の前がテレビの砂嵐みたくなって、でもそれは一瞬で、自分でも訳わからないくらい冷静にあの場から逃げて。
そう。舞香の仇をとった。
自分の服を見る。いつもの部屋着だ。
時間は──壁時計は午後十一時三十五分。
部屋から出て、洗面所に向かう。電気をつけて鏡に映した顔は──ボロボロだった。
とにかく涙の跡がすごい。マスカラが取れて黒い筋ができてしまっている。今気づいたけど目も腫れぼったい、冷やさなくちゃ。
顔を洗えば水の冷たさが、あやふやだった記憶の形をはっきりさせてくれる。あの男のライブ配信を見ながら近づいて、ナンパに応じたふりをして物陰に引きずり込んで、血を吸った。
でも粉になるまでは吸えなかった。
それどころか瀕死の状態で放置してしまった。
どうしても気分が悪くなってしまって吸い尽くせなかった。今までこんなことなかったのに。
タオルで顔を押さえてしゃがみ込む。喉から何かが迫り上がってくる感覚に任せ、身体を震わせた。
目の全部が熱くなって、押さえている部分が湿る。上手く息ができない。自分で自分を止められない。
思い出が全て真っ黒に塗りつぶされていく。優しげな笑顔も、落ち着いた声も、綺麗なアイスブルーの瞳も。全部全部全部。
これは本当に現実? 実は悪い夢をまだ見ていて、起きたらデート当日でした。とかにはならないだろうか。
……我ながらひどい現実逃避だ。
それよりこれからどうするか考えたほうが絶対いいのに、そこまで頭が回らない。警察に連絡されたと思っていいだろうし、そしたらここを突き止められるのは時間の問題だ。
それなのに立てない。力が入らない。──彼を、憎めない。
ただもう悲しくてどうしようもなかった。


街頭ビジョンにニュースが流れる。傷害を負った男性回復、事情聴取へ。二十代男性が暴行を受け失血性ショックによる重体……現在は回復……本格的な事情聴取へ……ミイラ事件との関連性……。
ニュースは終わり、天気予報へと移り変わる。明日も全国的に厳しい暑さとなる見込みです。熱中症には十分気をつけてお過ごしください。

寄りかかっていた壁から背中を離す。次はどこへ逃げよう。のんびりと考えている余裕なんてないのに、足が重くて動かない。
あの地方都市から逃げたはいいけど、あちこち転々とする生活にはもう疲れてきた。“食事”には困らないけど、移動するにはお金がかかる。獲物の人間から少しずつ拝借するのも限界がある。
吸い尽くさないように加減するのも疲れる。後遺症が残らない程度にもらうなら、かなりの頻度で襲わなくちゃいけない。辛い。

「お姉さん、友だちと待ち合わせ?」

今日はもうこいつでいいか。
声をかけてきた男に返事をしようと口を開いたら、そのまま固まった。

「そう。俺と待ち合わせ」

腕を強引に引かれる。相手の顔を見たら、舌が上顎に張りついた。
どちらの言葉も待たず、見るもの全てを凍てつかせるような瞳のまま、私を引きずり歩き出す。
思考がついていかない。
しばらく歩いたと思ったら、今度は路地裏に放り込まれた。されるがままになっていた私は尻もちをついてその人の顔を見上げた。
逆光で見えなかったけど、静かな怒りに満ちているのだけはわかった。恐ろしいのに目を離せない。馬乗りにされても抵抗一つできなかった。

「ね、なんで先に帰ったの?」

その問いに、一拍遅れてあの水族館でのことだと気づくが答えられない。次の質問をされたからだ。

「どうして連絡しても返してくれないの?」

そりゃあ電源ずっと切ってるし。
心の中だけで返事をした。答えを求めているんじゃないってわかったからだけど、黙って彼を見つめる以外にどうしたらいいかはわからない。

「でもしょうがないよな、俺はヴァンパイアハンターだし」

そう笑った。笑ったというか、口の端を無理に歪めただけだった。
首に生温い感覚がする。彼が私の首に手をかけたのだとわかった。そのまま顔をキスでもするんじゃないかと思うくらい近づけてきた。近すぎて、アイスブルーの瞳がよく見えない。

「お前の胸に杭を打ち込めば、それで済む話だったんだ。そうすれば俺は家族に、父さんにやっと認めてもらえるはずだったのに」

手に力がこもる。

「お前があの時、あの東屋で綺麗に笑うから。吸血鬼のくせに、バケモノのくせに、優しく笑うから。もう俺は、俺は──」

顔に雫がパタパタと落ちてくる。ああ綺麗だなぁなんて場違いなことを考えて、それから彼を、陽くんをずっと抱きしめて慰めたくなった。この世にあなたを脅かすものはどこにもないよと囁いてあげたくなった。
ふと、右手の人差し指がジクジクと熱を持っているのに気づいた。割れたビンで切ってしまったようで、血の玉が浮かんでいる。
そういや両親が教えてくれたんだっけ。人間を吸血鬼にしたいなら自分の血を少量でもいいから飲ませろって。
今ならできそう。

「ねぇ陽くん、吸血鬼になる気はない?」

二人で逃げよう。二人で生きよう。二人で死のう。心休まる日なんてどこにもないけど、きっと幸せだよ。
私は指を陽くんの口元へ近づけた。