後ろから口を塞がれ茂みに連れ込まれた。
何とも古典的な手口だなぁとため息の一つも吐きたくなる。それでもぐっと飲み込んでスマホだけは手放すまいと右手に力を入れた。画面は淡く光っていて、舞香からの返信がマシュマロのような吹き出しに表示されている。

〈小夜ちゃん、ありがとう。もう少ししたら退院できるから大丈夫だよ〉

それと一緒にこれまたマシュマロのようなウサギのスタンプが送られてきた。丸っこい文字でだいすき!と色鉛筆で描いたような、かわいさに全振りしたキャラクターは舞香のお気に入りだ。退院したらお祝いにマシュマロでスモアでも作って渡そうかと思ったけど、このキャラの文房具とかでもいいかもしれない。
どっちにしようか真剣に悩んでいるというのに、生温い風が思考の邪魔をしてくる。ちょうど私の首筋に当たるその風が、いや鼻息だか吐息だかがひどく鬱陶しくてしょうがない。
鬱陶しいのはそれだけじゃない。私の身体をまさぐる手もだ。スカートから、ウエストから手を突っ込んで下着を脱がそうとしているが、手は湿っているし震えているしでなかなか上手くいかないようだった。集中しているようですっかり油断している。
もう“いける”か。
私はそう判断して、肉の脂身を思わせる首筋に牙を突き立てた。


私はゆっくりと立ち上がるとずらされた下着を直して軽く汚れを払った。それから舞香に返信しておやすみ!と枕を抱えるクマのスタンプを送った。
学校指定のリュックを背負い直して、スマホはポケットにしまう。腕時計で時間を確認する。時刻は午後9時43分。
動画で見たモデルが言っていたのを思い出す。午後6時以降はごはんを食べないんです。睡眠とカロリーがナントカカントカ。
高学歴が売りの彼女が言うにはとにかく午後6時以降の食事は太るからダメらしい。お腹が空いたなら水を飲めとも言っていたっけ。ゆっくりと歩き出しながら目の端をかする赤に視線を向ける。
どこにでもある自動販売機だ。数メートル歩く度に設置されているような気がする。ゴミ箱も隣りに置かれていたが、もうパンパンで挙句に飲み残しのコーヒー入りカップがねじ込まれている。こういうゴミ箱って誰が掃除しているんだろう。
小銭を入れたら反応が悪いのかお釣りになって出てきた。今度はゆっくりと入れてみる。成功。電子音が鳴って買えるものにだけボタンが光る。押せばガタンゴトンとお決まりの合図がしてルーレットが点滅する。8777。ハズレ。これもお決まりだ。
取り出した水はどこか山奥の天然水、ではあるけれど本当に外国の山奥からの湧き水なんだろうか。適当に水道水入れて売ってたりはしないよね?まぁ味なんてわからないんだけど。
ほどほどに冷えている水を口に含む。口の中にたまっていた脂っぽさはすっかり消えてしまった。アルプスの湧き水は伊達ではないらしい。
そのまま半分ほど飲んで蓋を閉めるとまたのんびりと歩き始める。大急ぎで帰らないといけないわけでもないし、この湿気じゃ息苦しくて走ったりしたらそれだけで汗だくになりそうだ。誰だ夏なんて季節作ったのは。
無意味な八つ当たりを脳内で繰り返しているうちに、特に愛しくもない我が家へたどり着いた。明かりの灯らない真っ白な家は、今日の夜に何が起きたかなんて知らんぷりだ。
鍵を開けて入れば玄関のすぐ近くに大きな鏡が居座っている。電気も点けずに確認すれば、すっかり赤くなった瞳で誇らしげに微笑んでいる女の子がいた。
誰が私たちを〝鏡に写らない〟なんて言ったんだろう。もっと言えばニンニクも聖水も十字架も平気だし、日光にはちょっと弱いけど、浴びれば即死ってわけでもない。でも杭で心臓を穿たれたら終わりだ。
私にその事実を教えてくれた両親に連絡しようとポケットからスマホを取り出し、短く打ち込む。

〈ごはんさっき食べた〉

それだけ送るともう一度ポケットにしまう。〈今日は襲ってきた変質者を吸い尽くした〉なんて送ったりはしない。そんなものを両親は望んでいない。私が一族の子として“誇り”を忘れずに過ごしているかだけを確認したがっている。
それでも私にとっては獲物の食べ方や捕まえ方を、生きる術を教えてくれた両親だ。獲物を食べ切ってしまえば二週間は保つことや、反対に死なない程度に血を吸えば三日しか保たないことも教わった。催眠術をかけて罠にかけたり、人間に擬態して埋没しながら美味しい獲物を探す方法だって両親仕込みだ。
健康的な生活を送っている人間の血が一番栄養価が良いとは聞いたが、それだけだとモチベーションが上がらない。どうせなら、お世話になっている人間社会にお礼をするカタチで“食事”をしたい。
リュックを下ろし制服を脱ぐと真っ先にお風呂に向かった。正直バスタブにお湯を張ってまったりと浸かりたい。でも駄目だ。お腹がいっぱいで眠くてそこまで余裕がなくなってしまった。
熱いシャワーを浴びてスッキリしたところで、髪を乾かすのもそこそこに自分の部屋に戻る。家を出る前にクーラーをつけたおかげかTシャツにハーフパンツでも快適だ。冷房設定は二十八度。この地球に生きとし生けるもの、地球に優しくすべし。
机の引き出しに閉まってある日記帳を取り出してページを開く。スタンドから適当なペンを引き抜くと鼻唄を歌いながら丁寧に記す。

──七月二日、襲ってきた変質者を吸い尽くした。これで十二人目。

ちょっぴり家から遠かったけど、学校から帰って着替えずにあそこまで行ってよかった。変質者がやたら出る場所で、今まで行っていない場所となるとかなり限られてしまうのはかなりキツい。でも今日はあっさり引っかかってくれたから運がいい。
今まで吸い尽くしてきた獲物たちの姿を思い出しながら日記をパラパラとめくる。痴漢、盗撮魔、ナンパ、セクハラ教師、エトセトラ。その全てが吸い尽くせば同じようなミイラになった。特にセクハラ教師がいなくなったと知った女生徒の一部は、露骨に安心した顔を見せていた。それを見た日に、少し高めのケーキを一切れ買ってこっそりお祝いしたのが昨日のことのようだ。
私はさらに書き連ねる。

──私は“食事”ができる。人間の世界はほんのちょっとだけ良くなる。Win-Winとはこういうこと。

そこまで書いてからスタンドにペンを戻し、日記を閉じて元の引き出しにしまった。さぁ髪を乾かさないと。
まずは優しくタオルで水分を拭き取る。黒いセミロングはしっとりと重く少しだけ煩わしい。でも舞香はせっかく綺麗なんだから手入れしたほうがいいと言ってくれた。だから枝毛なんてできないようにトリートメントは欠かさずに。手荒にはせずに。
それでも血を吸えば髪の調子どころか肌や健康も最高の状態で保たれる。どんなに不健康な人間の血であってもだ。そもそも私を含め一族は人間の血さえあれば食事や睡眠など不要で生きていける。それなのにここまで心を込めて指通りのよい髪を目指すのは、ただただ楽しいからだ。
こんなことを考えていると知られれば両親からキツく叱られるだろう。けれど人間の文化は面白い。ありとあらゆる娯楽は舌に楽しく目に美しく耳に心地よい。一度知ってしまえば病みつきになるのに、両親はひどくもったいないと思う。
タオルドライをすませドライヤーをつけた。髪に近づけすぎないよう最新の注意を払う。機械音と温かな風が頬や耳に当たっても不快感はない。乱暴に髪をかき回さないよう、慎重に乾かしていく。
舞香はもう今頃は寝てしまっているだろうか。病院の消灯時間はわからないが、せめて寝ている時ぐらいは何にも脅かされずにいてほしい。散々に恐ろしい思いをしたのだから。
髪が大体乾いたのを確認して、そっと櫛を通してみる。絡まったりはしていないとは思う。だとしても壊れものを扱うように、そっと、そうっと。
本当なら舞香もそう扱われるべきだと思う。ナンパしていい存在ではないし、断られたからといって逆上して暴力を振るうのはもう論外だ。本当なら私がそいつを見つけ出してミイラどころか粉になるまで吸い尽くしてやりたい。でも裁判をすると舞香は言っていたし、それで舞香が納得しているなら、それでいいと──頑張って飲み込めるようにする。
あの日、まだ互いの名字さえあやふやだった頃、ナンパされている舞香を助けた。何を言われようと俯いてただじっとしている彼女に痺れを切らし、ナンパ男が馴れ馴れしく触れようとしていた瞬間に、私は彼女の手を取って駆け出した。
繁華街を駆けるのは障害物競走で一位になるよりもずっと大変だ。何しろ人間だらけでゴミだらけ、それだけならまだしも人間のほうが動いてくる。それでも二人して走った。脇腹が痛みを覚えるまで走った。
繁華街から少し外れた路地に入ると、私はそこでつかんでいた彼女の手を離して自分の膝に置いた。目をぎゅっとつむって呼吸が整うのを待つ。それは向こうも同じようで、私たちは互いに無言で荒い息を吐いては吸った。

「あの、関藤さん、だよね?」

吐息まじりの声が私の上から降ってきた。呼吸が完全に落ち着いてから声をかければよいのに。そう言いたくなるのをぐっとこらえて顔を上げた。
私の目線より少し下にある顔は小さくて、潤んだ瞳はクルミのように丸くて大きい。そんな童話のお姫様のような顔を、ふわふわした腰まである長い栗毛が包んでいた。

「うん、あの……大丈夫だった?」

私は月並みな言葉しか返せなくて、言った瞬間ものすごく後悔した。「大変だったね、手は痛くない?」とか「うん、池澤さんだよね? もうあいつ追っかけてきてないよ」とかもっと気の利いたこと言えないの、自分。

「大丈夫、ありがとう」

私が脳内で即興反省会を開き始めているのも知らず、舞香はそう微笑みかけてくれた。控えめに口の端を上げる彼女は、やはりどこかのお姫様のようだった。
それから私たちは一日かけて二人で遊び倒した。というか舞香の買い物に私が付き合った。聞けばヘビメタのCDを買いに来ていたところをナンパに捕まっていたということだった。

「好きなバンドのCD?」
「うん、フィンランドのバンドで、全然見つからなくて」

私たちは取り留めのない話をしながら、舞香の行きつけの店に足を踏み入れた。中古CDを取り扱うこの店はCDもそれ以外も隙間なく並べられ、地震が直撃すれば一発アウトな気がする。いや気がするどころかアウトだ。
コーンロウをきっちり編み上げている店主は私たちをチラッと見ただけで、すぐ手元の競馬新聞に集中してしまった。その接客態度はどうなのかとこの店の行く末が心配になったが、店員に干渉されないというのは結構心地がいい。舞香とぽつぽつ話しながら、ワゴン入りのレコードとか、誰が置いていったのかわからないMDを見つけたりするのは楽しかった。
その日から、舞香とは学校でも話すようになった。学校での舞香は誰よりも控えめで、存在感をできるだけ消して過ごしているような子だった。それでも男子の目が時々その華奢な肩を追っていたりした。それにあのセクハラ教師も……。
櫛が引っかかった。どうやら髪が絡まっていたらしい。私は櫛を置くと、髪が傷つかないよう指を当てた。絡まっていたところはすぐ解けて、手櫛でも問題はなさそうだ。私はもう一度櫛で撫でるように髪を梳かした。
梳かし終わったら早々に明日の準備に取り掛かる。明日は体育があるから洗ったばかりの体操着を持っていかないと。数学の課題は終わってるし大丈夫。忘れ物はない。
電気を消すとベッドに横たわる。目を閉じても眠気はやってこない。当たり前だ、血をすすったばかりなんだから。
だから、しばらく“計画”について考えることにした。
四月にこの地方都市にやってきて七月までに十二人。高校卒業までの百人は“食べる”と決めたのにとても足りない。もっとペースを上げていかないと。でもどうしよう。夜の繁華街でもうろついてみる? 補導を避けながらはハードルが高い。だったら……。
あれこれ計画を練っているうちにカーテンの隙間から光が差し込んできて、セミが元気に合唱を始めた。起き上がって目覚まし時計を見る。午前六時。もう起きる時間だ。
洗面所で顔を洗う。タオルで拭いた顔を鏡で写せば、黒い瞳が瞬いている。よし、一晩経って落ち着いてきたな。
朝の準備を済ませて外に出ると、隣りのおばさんが玄関の前を掃除しているところだった。

「おはようございます」
「おはよう、小夜ちゃん。今日も暑いわねぇ」
「昨日よりマシだそうですよ」
「そうなの? 良かったぁ」

おばさんはにっこりと笑ったが、すぐに眉を八の字にした。

「昨日っていえば、隣町でミイラの死体が見つかったそうよ」
「ミイラの?」
「最近増えてるわよねぇ、怖いわぁ」

おばさんは「小夜ちゃんも気をつけてね」と続けてきたので、私は「ありがとうございます、行ってきます」と返し駅へと向かった。


一定のリズムを刻む車内は冷房がかかってはいる。いるけど日差しがキツい。肺から空気が全部押し出されそうな息苦しさもキツい。夏の満員電車とかマジでただの拷問でしかない。
なんだか口の中が脂っぽくなってきた気がする。昨日のうちに水でゆすいだから平気だと思ってたのに、簡単にこの口はあの胃が重たくなるような味を思い出す。
昨日の変質者もだけど、どうしてあああいう連中は揃いも揃って脂っぽくて不味いんだろう。不摂生だからこそ女に対して傲慢に振る舞うのか、傲慢だからこそ不摂生なのか。
ガタン、と電車が大きく揺れる。その振動でドアにますます押しつけられて、耳元に荒い息が吹きかけられる。

「気持ちいい?」

確かに声はそう囁いた。こいつの血も不味そうだな、と思う。それと同時にここで何もかもかなぐり捨てて全部吸い尽くしたらめちゃくちゃスッキリするだろうな、とも思った。
さっきから触るわ擦りつけてくるわで鬱陶しいことこの上ない。どうやら私が動かず声も上げないから受け入れていると頭から信じているらしい。狂ってるな。
痴漢はスカートの中にまで手を伸ばしてきた。どうしてやろうか。遅刻覚悟で電車を降りて適当な路地裏に連れ込んで吸血してやるか、それとも連絡先を渡して後日じっくりとすすってやるか。

「おい」

痴漢が次の駅で降りたらどうするか。今のうちに特徴を覚えて明日にでも探して……。

「次で降りろ」

突然、荒い息や気持ちの悪い感触から解放された。
どうにか身体をひねると、そこには手首をつかまれた痴漢が茫然とした顔でつかんできた相手を見ていた。

「大丈夫か?」

アイスブルーの瞳が私のほうを向いた。乗客より頭ひとつ分飛び抜けたその人は、柔らかくも低い声で私に聞いてきた。

「お、おい! 離せ! 私が何を──」
「助けてください」

痴漢が我に返って騒ぎ出すのを尻目に、私は彼にそう告げた。舌がもつれたり声が上擦ったりすることはなくて、自分でも驚くほど冷静だった。
彼は力強く頷いて、痴漢に視線を戻す。

「こう言ってるけど?」
「だとしてもお前に関係あるか!?」
「俺見たし、動画も撮ったから」
「ふざっ、ふざけんな! 肖像権の侵害だぞ!」
「そういうアンタは痴漢だな」

周囲から刺々しい視線を感じる。やめてくれよ、これから仕事だってのに。まさか電車止まらないよな。痴漢ぐらいで騒いでんじゃねぇよ。どうしよう、下手すると巻き込まれそう。──そんな声が聞こえてきそうだ。

「二人とも、一緒に降りてください」

二人は言い争うのを止め、私の言葉を理解した瞬間に正反対の反応を見せた。

「いいよ、もうすぐ着くし、こいつは見張ってるから」
「黙れブス! 誰がお前なんか触るか! 金目当てなら他の奴にしろ!」
「では検査を受けてください。そうすればわかることですから」

まだまだ元気に喚きちらす痴漢に、これは何を言っても通じそうにないなと目頭をもみたくなる。彼も同じだろうかと目を向けた。
アイスブルーの瞳は瞳孔が開き、見たこともない氷の洞窟を思わせた。口元は真一文字に結ばれて開く様子はない。そのままの顔で痴漢を見下ろして瞬きさえしないものだから、凍ってしまったのではないかと思った。

「なんだよ……」

痴漢の声も勢いをなくした。精一杯の抵抗なのか、必死で下から睨みつけている。
彼が口を大きく開いた。

「◯◯ホールディングス!!」

痴漢の顔が青くなった。

「へー、◯◯ホールディングスの人かぁ!! ◯◯ホールディングスの人って痴漢するんだぁ!!」

車内に響くその大声に痴漢はますます顔色を悪くした。「ちょっ、まっ」とか「やめ、やめ」とか言ってるけど彼は止めそうにもない。それどころかもっと大声を出そうとしているようだった。
……結局、駅に着くまで続いたが、痴漢にとっては永遠にも感じられる拷問だったろう。暴れたりせず、大人しく駅員室まで連行されていた。
駅員さんは親切で、すぐに痴漢とは別の部屋に私たちを案内してくれた。学校にも連絡してくれると言うので伝えようとすると、
「⬜︎⬜︎高校です」
と何故か私の高校を知っていた。驚いて彼を見れば、なんのことはない、うちの高校の制服だった。

「ロシアから転校してきた。んで、今日クラスで挨拶する予定」
「あー……なんかその、ごめん。予定狂ったでしょ」
「ううん、一限目終わった後の予定だったから平気」
「そっか……あの、ありがとう」
「どういたしまして」

彼は目尻にシワを寄せて笑った。そうすると少しだけ幼げに見える。

「俺ね、小出 陽。一年二組になるって」
「関藤 小夜……私は一年三組」

そっかー、おしいなー。同じクラスだったら色々教えてもらおうと思ったのに。あ、でも厳しかったり怖い先生とかいる? 良かった、いないか。校則はどう? 結構ゆるい?
まるで休み時間のようにのんびりとした会話を続ける。痴漢のことなどなかったように。それがありがたくもあり、申し訳なくもあった。

「小出くん」
「陽でいいよ。どうした?」
「私なら大丈夫だから」

挨拶が一限目の後って嘘でしょう。そんな中途半端な時間なはずない。そんなに気を遣われると、むしろ申し訳ない。
視線を床に移してそう言ってしまった。大人しく、ありがたく彼の好意を受け取れば良かったのに、どうして卑屈な言い方をしてしまったんだろう。
思った通り会話は途切れ、恐ろしい沈黙が続く。この場に駅員さんが来てくれたりしないだろうか。そんな現実逃避めいた願いが叶うわけもなく、時間だけが刻々と過ぎてゆく。

「上手く言えないけどさ」

小出くんが呟いた。私は恐る恐るその表情を盗み見る。

「上手く言えないけど、こういうのってお互い様だと思うよ」

お互い様。私が復唱したのを聞いて、小出くんはさらに言葉を重ねる。

「そう、お互い様。それにさ、〝情けは人の為ならず〟ってあるじゃん」
「うん」
「あれって他人を甘やかしたらダメって意味だと思ってたんだけど、周りに親切にしてればいつか自分にいいことがあるって意味なんだよね」
「そうだね」
「だから、その、なんだ」

小出くんは後ろ頭をかいた。

「その……関藤さんが気にすることないんだよ」

朴訥とした、月並みな言葉。
上手いことを言ったわけではない。ないけれど、その言葉は耳を通って脳から心臓へ、手足へと行き渡る。
そのせいなのか目が潤んで、気持ちがぼんやりしてきた。おかしいな、こんなふうになったことは一度もないのに。
そう思っていたら、ドアが開いて駅員さんが入ってきた。


学校へ着くと、先生が気遣わしげに声をかけてきた。要約すると、保健室やカウンセラー室で休んでいても構わない、早退したっていい、無理はするな、ということだった。

「大丈夫です。ホームルームでの連絡事項を教えてください、一限から出ます」

私は小出くんを視界に入れながら話していた。担任の先生の和やかな表情から叱られてはいないようだ。良かった。
二人が連れ立って職員室へと向かったのを確認し、私は先生に目礼して教室へと向かった。
教室では転校生の話で持ちきりだった。曰く、めちゃめちゃイケメンな男子が転校してきたと。確かによくよく思い出せば綺麗な顔をしていた。童話に出てくる王子様みたいなタイプ。でもあの時、あの痴漢を凝視していた時の顔は。

──芯まで凍るかと思った。

教室の空調は寒すぎたりはしない。むしろ少し暑いくらいなのに、ざわりと鳥肌が立ち、背筋から首筋までを弱い電流が流れたような気さえした。次に思い出したのは、あの目尻にシワが寄った、可愛らしい笑顔だ。年相応の、とも言えるか。
とにかく十代の男の子がしていい顔じゃなかった。じゃあ何歳のどういう人ならしていいかと聞かれたら答えられない。
ただ、もしも小出くんが意識して二つの顔を使い分けているのだとしたら──どちらが本性か。
どちらも本当の小出くんなんだろうけど、平和に生きてきた男の子があんな顔をする? クラスの男子があんな顔をするなんて想像つかない。
そう思いながら国語の準備をする。今はとにかく授業に集中しないと。舞香の分までノートをしっかりとらないといけないのに、呆けてどうする。
チャイムが響き、先生が教壇に立つ。私は頭から小出くんを追い出してその隙間に舞香を置いた。


私は舞香からのメッセージを二度、三度と読み返した。何度読み返しても内容が変わるわけがない。それでも読み返すのは、脳が理解するのを拒否したからだ。なんなら一度目の時は血の気が引いて、目の前が真っ暗になりかけた。
ここが図書館でなければスマホを床に叩きつけているところだ。そのくらい、理解できなかった。

〈裁判じゃなくて、示談にするってお父さんが〉
〈そうしないと、私がキズモノになった記録が残っちゃうってお母さんが〉

キズモノ。その言葉はヒトに使われるものではないはずだ。舞香はモノじゃない。舞香はヒトだ。どうしてもヒトに使いたいなら、舞香を襲ったやつに使うべきだ。

〈ねぇ小夜ちゃん、私ね、お嫁さんになりたいんだ〉
〈けどキズモノってバレたらなれないんだって〉
〈たとえなれても、大事にしてもらえないんだって〉

違う。嘘だ。舞香なら絶対なれる。大事にしてもらえる。だから、お願い。

〈あきらめないで〉

そう返そうとして、指を止めた。
これは勝手な私の願い。それを舞香に押しつけるの?
舞香はもう十分押しつけられた。私まで舞香に押しつけるの?

〈わかった、お大事に〉

やっとそれだけ打って返信した。なんだかひどく疲れてしまった。
図書館には私だけしかいない。正確には司書の先生はいるけど電話で呼び出されたらしく外に出ている。
私は図書館の奥まった場所にある閲覧席に腰を下ろした。この暑い中帰れる気がしなくて、放課後ギリギリまでここにいようと決めた。
空調の音と混じるように下校しようとする挨拶の声や部活動の掛け声が聞こえてくる。それらをさえぎるように図書館の扉が開く気配がした。
先生が戻ってきたのかな、と身体を傾ける。アイスブルーの瞳と目が合った。

「こい……陽くん」

彼は一人だった。休み時間にちらっと見たら女子に囲まれていたのに、皆はもう飽きてしまったんだろうか。

「ちょっと一人になりたくて……」
「そっか」

四六時中囲まれていれば疲れる。もっともだ。
私は立ち上がってリュックを背負う。ノートとか筆箱とか出してなくてよかった。彼の精神状態はすぐに回復するだろう。

「待って、違う、違うって」
「え、一人になりたいって……」
「そうだけどそうじゃなくて」

ううんとうなった小出くんは苦しそうだ。わかる。自分の気持ちを上手く言えないのってキツいよね。
だから私は急かさず待った。小出くんが口を開く。

「その、関藤さんは大丈夫なんだ」
「私は大丈夫……?」
「そう。何も話さなくても焦らなくていいっていうのか……」
「ああ、何か話さないと空気悪くしそうみたいなのがない?」
「うん、そんな感じ」

眉間のシワが取れて口角が上がった。喜怒哀楽がわりとはっきりしてるタイプか。どっちが本当の彼なのかわかるかもしれないと、話を続けてみることにした。

「今朝は本当にありがとう」
「ああ。いいって、ホント」
「よく◯◯ホールディングスの人だってわかったね」

もしかして当てずっぽうだった? と小首を傾げる。
小出くんは顔の前で手を軽く振った。

「バッジつけてたんだよ、あの痴漢」
「会社のバッジ……」
「父親の知り合いに同じバッジつけてる人がいて、それで」

小出くんの表情を盗み見れば、彼は鼻の頭をかいていた。極々普通の男子校生だ。やっぱりこっちが素なのかもしれない。

「それでさ、連絡しておいたよ。その会社に」
「連絡?」
「あなたのとこのバッジまで付けてる社員、痴漢してますって」
「いつの間に?」
「電車乗った時」

ああそう言えばまた一緒に電車乗った時にスマホ見てたっけ。あれは連絡していたのか、と感心する前に背筋を冷や汗が流れた。
──またあの顔だ。
心臓が嫌な跳ね方をしてる。何か言わなくちゃと思うのに声が出ない。何か。何か。
ふと、小出くんの顔つきが和らいだ。図書館の扉がまた開く。顔をそちらへ向けると、今度こそ先生が帰ってきていた。

「それじゃ、また明日」
「うん、また明日」

小出くんはそう言いながら私の耳元に顔を寄せた。

「また二人だけで話そう」

私は返事をせずに早歩きで図書館を出た。