嬉しそうな彼は、ブラシで丁寧にわたしの髪を梳かし始めた。
以前、あんなふうに乱暴に掴んできたとは思えないほど、その手つきは優しい。
「傷は平気?」
「え?」
ふと尋ねられて我に返る。
「染みたりとかしなかった?」
思わず目を落とした。
膝を抱える腕に力が込もる。
「……大丈夫だよ」
もちろん、お湯も泡もじんじんと染みた。
中にはまだ血が滲んでくるようなものもあって、生傷だらけの脚は痛々しいと言ったらない。
それでも“強がる”以外の選択肢をとれば、彼を責めることになって、また傷が増えてしまうような気がした。
そんなことを考えていると、ふいに十和くんの手が止まる。
(あ、あれ? わたし、何か間違えた……?)
さっと青ざめた次の瞬間には、彼の腕に包まれていた。
後ろから抱き締められている。
「ごめんね」
言葉にも行動にも困惑してしまい、すぐには何も言えなかった。
「本当ごめん。俺、あんなこと……芽依ちゃんを傷つけたかったわけじゃないんだよ」
とても信じられない。
なのに、嘘をついているようにも聞こえない。
「もう芽依ちゃんと一緒にいられなくなるかもって思ったら、何か必死になっちゃって」
ぎゅう、と強く抱きすくめられても、痛くなんてなかった。苦しくもなかった。
振りほどいて拒絶する余地を、わたしに残してくれている。
「好きなんだよ。……それだけなの」
わずかに掠れた声は、切なげに空に溶けた。
背中に預けられた温もりが、頬をくすぐる髪が、回された腕の強さが、意識の内側に嫌でも滑り込んでくる。
「十和、くん……」
「でも」
するりと腕がほどけていく。
「好きになってごめん」
落ちた余韻に引かれるように振り向いたけれど、彼は目も合わせないうちに立ち上がった。
ドライヤーやブラシなんかを手にあっさりと部屋を出ていく。
閉まったドアをじっと見つめた。
(……分からなくなってくる)
ここへ来てから目の当たりにした、狂気的でサディスティックな姿が十和くんの本性だと思っていた。
だけど、いまさっきの彼は様子がちがった。
いったいどれが本当の顔で、どの言葉が本物なんだろう。
ついそんなことを考えている自分に気づいて、はっとした。
これじゃまるで、十和くんのことを信じようとしているみたい。
(ありえない)
彼は“悪”だ。
危うく取り込まれるところだった。
どんな事情があったって、どんな態度を取ったって、わたしに対する仕打ちが消えてなくなるわけじゃない。
◇
朝になると、十和くんは朝食を運んできた。
いつものようにサンドイッチと水。食事にありつけるのは一日に2回。
「じゃあ行ってくるね、芽依ちゃん」



