王都に来て三日目。ケネスのお店を訪ねた翌日、アナスタシアはアーヴェントと共に朝食を済ませ別邸の二階にあるバルコニーでお茶をしていた。ラストはお茶の準備を済ませた後、気を利かせて部屋から退出して別な仕事をこなしていた。

 バルコニーからは昨日足を運んだ王都の中心街が遠くに見える。空は快晴で青い空がどこまでも続いていた。

「今日はいい天気だな」

「そうですね。ここは王都がとてもよく見えますね。私、ここからの眺めが好きです」

「気にいってもらえて嬉しいよ」

 お茶を口に運びながら、二人は会話を楽しむ。話題は今日のこれからの予定になり、アーヴェントがアナスタシアに尋ねる。

「祝賀パーティーの準備も昨日までで済ませたからな。王都に来た用事のほとんどは終えたことになる。王都にはあと二日ほど滞在しようと思うのだが、アナスタシアは何処か行きたいところはあるか?」

 お茶が淹れられたカップをソーサーに戻しながらアナスタシアは少し考える素振りをする。今すぐに何処かに行きたいという希望は特になかった。それよりもこうして、アーヴェントと一緒に過ごせる時間が何よりも尊いように思えていたからだ。

「私はアーヴェント様と一緒にいられて、とても満足しています」

 膝の上に添えた手をもじもじさせながらアナスタシアが言葉を口にする。それを聞いたアーヴェントは嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「それはとても光栄だな。俺もアナスタシアと一緒にいられるのが嬉しいよ」

「アーヴェント様は何処か行きたい所などはないのですか?」

「俺か?」

「はい」

 柔らかい笑顔を浮かべながら今度はアナスタシアがアーヴェントに尋ねる。アーヴェントは一度視線をバルコニーから見える光景に移しながら考えていた。そうだ、という表情を浮かべるとアナスタシアを両の深紅の瞳で見つめながら、少し言いづらそうに右の頬を軽く掻く素振りも添えられていた。

「その……なんだ。行きたい所とかではなくて、ただ俺の希望になってしまうのだが……」

「何でも仰ってください。私に出来ることなら、してあげたいですし」

 少し首を傾けながらアナスタシアが微笑む。その仕草に背中を押されたようにアーヴェントが言葉を口にする。

「アナスタシアがよければなんだが……唄を一曲うたってくれないだろうか? またお前の唄が聞きたくなってな」

 照れたように頬を掻くアーヴェントの姿がとても印象的にアナスタシアの青と赤の瞳には映っていた。

(アーヴェント様は私の唄をとても気に入ってくださっているのね。私もアーヴェント様の元に来てから唄うことに抵抗がなくなってきているみたい。ミューズ家ではあんなに毛嫌いされていたのに……)

 アナスタシアは空に広がる青の色を見つめた後に、すっと椅子から立ち上がって礼をしてみせる。言葉も添えられていた。

「アーヴェント様がご希望なら……お応えさせて頂きます」

「ありがとう、アナスタシア」

 アナスタシアは椅子の横に立ち、更に後ろに二、三歩下がる。ある程度のスペースを確保すると一度目をそっと閉じ、胸の辺りに両手を軽く添える。バルコニーに吹く風がとても心地よく感じられた。静かに青と赤の両の瞳が開かれる。

【この青空は 私の心のように 晴れ渡り 広がっていく
 あの青空は 貴方の心のように 澄み渡り 私の心を包んでくれる 
 貴方と一緒に歩いていきたい ずっとずっと この青空の下で】

 うたい終わるとアーヴェントの温かい拍手に迎えられた。とても満足しているように見える。

「素敵な唄だったよ、アナスタシア。ありがとう」

「喜んで頂けて嬉しいです」

(嬉しそうなアーヴェント様のお顔を見るのが、とても嬉しい……やっぱり誰かの為に唄をうたうのが楽しいのね、私。お父様やお母さまの時もそうだった……そういえばメイも同じように喜んでいてくれたわね。元気でやっているかしら……)

 アナスタシアは再び椅子に腰掛ける。すると遠くから馬車の音が聞こえてくる。二人が揃ってバルコニーの外に目を移すと別邸の前に一台の馬車が止まる。よく見るとシェイド王国の紋章が側面に刻まれていた。

「王家の馬車……? 今日はライナー達と会う予定はないはずだが……。アナスタシア、ここで待っていてくれるか?」

「いえ、私も気になりますのでついて行っても宜しいでしょうか?」

「ああ、それは構わない。なら、一緒に行こうか」

「はい」

 アーヴェントは立ち上がると、アナスタシアの椅子をそっと引いてくれた。そして差し出したその手をアナスタシアがそっと握る。ちょうどラストが呼びに来てくれた。三人は二階から階段を降りて玄関ホールに向かう。ちょうど、玄関の扉が片方だけ使用人によって開かれており訪問してきた者の顔が見えた。それはリチャードだったのだ。

「リチャード、珍しいな。お前が城の外に出るなんて」

「ボクだっていつも部屋に閉じこもってばかりじゃないさ。一応剣士だからね。王都の見回りの役目もちゃんとしているよ。それより、連絡もなしに急に訪ねてきて悪かったね」

「そんなことは気にしなくていいさ。リチャードなら喜んで迎えるつもりだ」

 ありがとう、とリチャードは爽やかな笑顔を浮かべる。

「立ち話もなんだ。客間に案内しよう。ラスト、頼む」

「かしこまりました」

 二人がそう会話をしていると、リチャードからまだ何か伝えることがあるらしく呼び止められる。

「あ、その前に実はアナスタシアに会わせたい人がいるんだ」

「私に?」

「ああ」

(ライナー様のことかしら……それともリズベット様が会いに来てくれたのかしら? でもそれならもうここにお顔を見せているはずだし……)

 アナスタシアには王都で自分を訪ねてくるとすれば目の前にいるリチャードと王太子であるライナー、王女であるリズベット以外に思い当たる人物はいなかった。考えている素振りをしているアナスタシアに微笑みながらリチャードは閉じてあった片方の玄関の扉に近づいていく。

「お待たせしてしまったね。さあ、出ておいで」

 閉じられていた片方の扉越しにリチャードが声を掛ける。するとその扉がゆっくりと開かれる。そこにはアナスタシアの良く知る人物が立っていたのだ。驚きの光景にアナスタシアが両の瞳を瞬かせていた。

(え……!?)

「メイ……なの?」

 名前を呼ばれて、下げていた頭をふっと相手が上げて見せる。間違いなく、そこに立っていたのはメイ・クーデリアだったのだ。私服の姿だが、ドレスには少しシワが寄っているようにも見えた。だが、アナスタシアにはそんなことは些事だ。ただ、瞳を潤ませて驚きで開いた口に両手を当てることしか出来なかった。

「アナ様ぁっ!!」

 そんなメイもアナスタシアの顔を見ると瞳を潤ませながら、猫のように彼女の胸に飛び込むのだった。飛び込んだ拍子に潤ませていた瞳から涙が零れ始めていた。

「本当にメイなのね? メイ、会いたかった……っ」
「私もですぅっ!」

「良かったね、メイ」

 抱き合う二人を見てリチャードは静かに頷いてみせる。そんな彼にアーヴェントが声を掛けた。いきなりの展開を目にすれば、当然の反応だ。

「リチャード、これは一体……?」

「話すと長くなるけど、いいかな?」

 爽やかに微笑みながらリチャードが答える。アーヴェントは二人を一階の客間に案内するようにラストに頼む。客間の椅子に腰掛けたリチャードからこの急な展開についての説明がされるのだった。