亮二は、かつて理緒がいた病院の社宅で
一人わびしく、二本目のビールを開けた。

今日も疲れた。

外来も込んでいたが、午後からの肺がんのオペが
思ったより手間取った。

病巣は意外にも進行し組織内部まで浸透していた、

切れるとこまで取り除いたが
多分、あれだと転移している。

抗がん剤で叩いて
それでもダメなら…

そんな仕事のことなど忘れて
理緒と話がしたかった。

そして、誠一郎と、どんな会話をしたかも
確認したかった。

誠一郎は、多分、理緒と慎重な会話をしただろうことも伺えた。

理緒が亮二の社宅を出ていったのは
一年前…

本当は、ずっと理緒の面倒を診るつもりでいた。 
理緒も、亮二のところ以外に
行くところはないだろうと思った。

そもそも、理緒を引き取った時は、もう、
まともな生活など送れないとさえ思った。

養女として引き取った時の理緒は
やせ細って、何も喋らなかった。

髪の毛も伸び放題で言葉も喋れなかった。

亮二が、慣れない料理をし、
一生懸命、作ったカレーライスも、
一口も口にしなかった。

買い物に連れ出しても
何も欲しがらないし
そもそも無反応だった。

毎日、ベッドで眠って、
必要最低限の水と
食べ物を摂取し
トイレに行って、再びベッドで眠り
毎日が過ぎていった。

病院の看護師には

「津川先生の看病がきっと
理緒ちゃんを変えますよ」

と励まされたものだ。

そうは言っても、理緒がこのまま
寝たきりになるのではと、不安に苛まれた頃ー

亮二か帰宅したある日
理緒はパジャマ姿で
バイオリンを演奏していた。

パガニーニ…

激しく、何かに取り憑かれたように
バイオリンをひき続けていた。

「こんなにひけるのか…」

亮二の声に、理緒が、
ビクッと固まった。
そして、バイオリンも
ピタッと止まった。

二人に長い沈黙が続いたとき、

「…お…お…かえりなさ…」

今にも消えそうな声だったが
この日、初めて、亮二は理緒の声を聞いた。

「…ただいま…」

理緒が初めて
喋った日だった。