ワインとチーズとバレエと教授



「お久しぶり」

早苗は、微笑みながら、誠一郎に軽く手を振った。

誠一郎も「あぁ、久しぶり」と、手を上げた。

「聞いたわよ」

「何を?」

「あなた、彼女が出来たんだって?」

「え…」

まさか、内科の山本医師が、スピーカーのように
喋りまくってるのでは…と思ったが、

「食堂でカワイイお嬢さんとランチしてたって、医局の子が」

「あぁ、それか…」

誰かに見られると思っていたが、やはり、理緒と食堂で食事をしているところを見られていたらしい。

「どこでそんなカワイイ子見つけたの?」

「どこだっていいだろ、それより、早苗は今はどうしてる?」

「私はN病院の契約満了で大学にようやく戻れた」

「お父さんの病院は継がなくていいのか?」

「継ぐ気はない」

「お父さんも、可哀想にな。せっかく娘を医者にして大きくした循環器内科を継がせるつもりだったのに、その娘は大学で研究か」

「相変わらず嫌味ね」

「本当の事だろ」

早苗の父は、この大学病院を卒業し、第二内科に所属していたが教授とソリが合わず、さらに腕もいいのでこの地域で一番大きな循環器内科センター病院を建てた。

ウワサによると、心臓外科も併設させるらしい。
ウチの大学病院の外科からも、誰か引っ張って行く予定らしく、今、第二内科は、現在の教授と早苗の父の派閥で分裂気味だ。

その娘は、シラッと大学病院に残っている。

「よく大学病院に図太くいれるな」

「父と私は関係ないわよ、誰か父の病院、継いでくれないかしら」

「おいおい、声が大きいぞ」

そう度胸の据わっている早苗だが、10年前の早苗は、そうではなかった。

「ねぇ、いつ結婚するの?」

「は?」

「彼女よ!」

「お前に関係ないだろ」

「いいじゃない、皆、あの藤崎先生に彼女ができたと騒いでるんだから」

そんなに、ウワサが広まってるのか…
これだから、病院は…

「でも、誠一郎も、よく彼女が出来たわね、私、一生、独身だと思ったわ」

早苗がケラケラ笑ってる。

「すごく若い子なんでしょ?」

「なんでそう思う?」

「食堂で見た人がそう言ってたから」

「…はぁ、この病院は人のプライバシーに土足で踏み込む奴らばかりだな」

「あなただから、ウサワになってるのよ」

「余計なお世話だと、皆に言っとけ」

誠一郎は、手をヒラヒラさせ、大学病院に戻っていった。

一橋早苗
大学の同期だった。

彼女と付き合い初めたのは、医師としてキャリアを
築き始めていた頃ー

早苗と久しぶりに病院内のカフェテリアで合った。

誠一郎は、順調に精神科医の道を歩みながらも、
メス科と違い、患者を完治させれない失望感を抱え込み、早苗は、父親の束縛に悩み続けていた。

今度、一緒にご飯でもー

そんな約束をしたとき、もうお互い、付き合うことを意識していた。

やはり、食事に行った二人は、どちらから、何か言うこともなく男女の関係になった。

その2年後、誠一郎は前教授から、トロント大学への留学を勧められた。
もちろん、次期、教授候補としてー

断る理由はなかった。そして、大学病院以外の外の景色も見たかった。
そして患者にも行き詰まっていた。

誠一郎は、即決で

「行かせて頂きます」

と、前教授に伝えた。

問題は、早苗だった。
早苗は、誠一郎が留学を期に結婚を申し込むものと思っていた。
誠一郎が、改まって早苗をレストランに呼び出した。

そのとき、早苗は、キレイなワンピースを着ていた。

父親が医者で、育ちのいい早苗だったが、
大学病院では、静かで控えめだった。

循環器内科に行ったのは、もちろん父親の至上命令だ。

そんな早苗は、終始微笑みながら

「留学、おめでとう」

と、誠一郎を褒め称えた。

だから、余計に切り出しにくかった。

「俺たち、別れないか…?」

その誠一郎の言葉が理解できず、早苗の表情は固まった。

「……え?」

「俺は留学する、1、2年は帰らないつもりだ。早苗を待たせるのは申し訳ない」

早苗は、その日

「一緒にカナダに着いてきてくれ」

と、言われるとばかり思っていた。

「…なぜ、別れるの?」

「早苗は、お父さんの病院を継がなきゃいけないだろ」

「父は関係ないわ!」

初めて早苗が怒鳴った。

「そういう訳にいかないだろ!」

「なんで一緒に行こうとか、待っててくれとか言わないの?私と結婚する気でいると、てっきり…」

誠一郎も、そう思った。早苗となら結婚も考えれると。

でも…

「俺は今、研究でいっぱいなんだ!もちろん、早苗との結婚も考えた!だから付き合った!でも、留学したら、 この先どうなるか、自分でも分からないんだ!」

誠一郎も怒鳴った。

「あなたは、結婚するのが怖いだけ!
責任を取りたくないだけ!
そして誰も愛したことなどないし、私のことも一度も愛してなんかいなかった!」

早苗は、コートとバックを持って
レストランから出ていった。

本当に、その通りだったー
本当に早苗が好きなら

「結婚しよう、留学先についてきてくれ、お父さんを説得するから」

と、言ったはずだ。

その時の誠一郎は、そんな感情は湧いてこなかった。誠一郎の中途半端な愛情が、早苗を傷つけていた。

じゃあ、理緒ならー?

間違いなく、自分が今、海外に行くなら
亮二に話をつけ、適切な医療を受けれる病院を探し
理緒を何としてでも連れて行くー

その前に海外に行くのをやめるー

あの頃は、若かったのか、それとも、誰も愛したことなど無かったのかー

きっと、両方だろう。

誠一郎は、全てを振り切って留学した。
早苗は、誠一郎をさっさと忘れ、自分の人生を歩み始めた。

父親とも決裂して、わざと大学に残った。
二人共若かったのか…。
誠一郎は、苦い思い出を思い出していた。

でも、今は早苗とはこんな会話が出来る気楽さだ。

それにしても、ウワサの早まり方は凄まじい。

誠一郎は、もうここまで来たら、理緒との関係を隠そうとは思わなくなった。

それだけ、理緒が誠一郎の全てになっていった。