理緒の目が真っ赤で、涙の跡がある。
受付女性は、一礼すると去っていった。
「…どうぞおかけください」
誠一郎に促され理緒がパイプ椅子に座った。
「…内科にかかられていたのですね」
誠一郎は自分でも動揺を隠しながら、話を切り出した。
しかし理緒は何も言わない。
ただ、目と鼻が赤く、グスグス言ってるが、涙は流れていなかった。
まだ首には引っ掻きキズがあり、
手首には歯で噛んだような跡がある。
つらい一ヶ月を乗り越えたのだろう。
それで、突然、難病と言われさぞ、ツラいだろうと
誠一郎は思った。
ただ顔には出さないでおいた。ただ、いつもの
「内科では、何と言われましたか?」
という嫌味な質問をしてる場合ではない。
今回はすぐ本題に入った。
「Y病院で慢性疲労症候群と診断されたようですね…さっき、内科の先生が仰ってました」
「……」
理緒は無言だった。
「内科の先生が、大変ご心配されていましたよ、
あなたは、全ての治療をやめたいと仰ったそうですが」
「………」
やはら、理緒は無言だった。
「…内科の先生は
なんと仰ってましたか?」
「……」
「これから、生活にいろいろ、規制が出てくると思うのですが…」
「……」
「……津川さん、聞いてますか?」
「……大丈夫です」
消えそうな声で理緒がようやく話した。
「何が大丈夫なのですか?」
「……私は、大丈夫です…」
そう言いなが理緒の瞳が、うるんで、
今にも泣き出しそうだ。でも、くいしばっている。
「大丈夫とは精神状態ですか?身体ですか?」
「……全部……」
「どこが大丈夫なのですか?あなたの大丈夫は、だいたい大丈夫じゃありません」
「…私は…大丈夫…」
「なら、なんでトイレで泣いてるんです?」
「………」
「ここで泣けばいいでしょ?」
「…ご迷惑をおかけしたくなくて…」
「診察室で泣くことの、どこがご迷惑なのです?」
「…先生を困らせたくなくて…
ごめんなさい、時間が遅れて…」
「いえ、時間は気にしていません、ただ、あなたが
症状を訴えてくれないと、私は治療が出来ません、これの、どこが大丈夫なのですか?」
「じゃあ、先生は私が大丈夫じゃありませんと、言って欲しいの!?」
「そうなら、そう言えばいいじゃないですか!」
「だから私は大丈夫です!」
「大丈夫なら、なんでトイレで泣くんです!?
ここで泣けばいいでしょ!?
強がるのを、そろそろやめたらどうですか!!」
「強がってない!!」
「どこがです!!もうちょっと私に
本音を話してもいい頃です!!」
誠一郎と理緒は、初めて言い合いになった。
理緒もそんな自分に、気がついたようだ。
そして、大粒の涙を流した。
「じゃあ聞くわ!私は何のために
生まれてきたの!?親に虐待されて、
ろくに食べ物も与えられず、安心して眠れる日なんてなかった!
津川先生に引き取られても、いつ捨てられるか
分からない状態で、頑張る以外ないじゃない!?
私は虐待された事は全て学びに変えた!
バレエをした!ピアノをした!モデルもした!
教養も身に着けた!
あと何をすれば
私は普通の生活が送れるの!?
これだけ努力しても、まだ幸せになれないのは
私の責任!?
今度は病気になって、仕事もトゥシューズも奪われて私はどうしたらいいの!?
もう疲れたの!!こんな人生なら
生まれてこなきゃよかった!
もう私は頑張れない!死にたい!
最後は好きなだけ踊って死ぬわ!
もう病気の治療なんてしない!私は疲れたの!もう死にたい!!
それを言ったら先生は何をしてくれるの!?
薬で治してくれる!?
どうせ何もできないし、困らせるから
言わなかっただけ!
トイレで泣くことも許されないなんて
先生も私の親と一緒よ!!!
どうせ診察室で泣いたら
めんどくさがるくせに!!!」
理緒がわーっと泣き出した。
理緒が初めて感情をぶつけた。
理緒が初めて怒った。
理緒が初めて怒鳴った。
理緒が初めて泣いた。
その気迫に、誠一郎は少し動揺した。
誠一郎は、こんな状況を
何度も経験してきている。
だから、いちいち傷つかない。
いや、傷つかないようにしてきた。
でも、自分が無力だと言うことを、理緒の言葉で思い知らされる。
「先生に何ができるの!?」
「先生は治せるの!?」
「先生に何がわかるの!?」
患者に散々言われてきた。
そう、答えは、何もできないー
誠一郎は、また左手の甲をカリッと掻いた。
理緒の鋭く光った瞳から、涙がこぼれるのを見ると
自分の無力さへの、恨みをぶつけられているようだった。
実際、多くの患者は、そう思うだろう。
自分は無力なのだからー
「……手伝わせてください」
「…え?」
「私は無力です、そこは認めています。
薬ですぐ治る問題でもありません、私が出来ることも限られています。
患者さんに"お前に何が分かる"と言われても、仕方ない立場であることも分かっています。
でも、私は精神科医として、最大限、あなたの治療に専念します。
あなたの夢は、誰かに愛されてみたいーそうでしたね?
その夢を叶える手伝いは可能です。
今すぐ答えは求めません。ただ、こんな私でも、何か手伝えることがあると思います。ご検討頂けないでしょうか?」
誠一郎は極めて淡々と伝えた。
「今すぐ決めなくても構いません。
治療の続行を検討だけでもしてみてください。
それと、次の外来日だけは、決めておきましょう
一ヶ月後は遅すぎると判断しました。
これからは2週間に一回のペースでいかがでしょう?」
理緒は少し、あっけにとられていた。
「では、次ー」
誠一郎は、会計時に
必要な用紙を理緒に渡した。
「それと…首をかなり掻きむしってますね。
お辛かったでしょう。もう、引っ掻かないよう注意してください。痕が残ります。今は薬は出しません。では、次回…」
そう告げると誠一郎はまたパソコンに向かった。
誠一郎が、また左手の甲をカリッと、引っ掻いたのが見えた。
理緒は静かに診察室を出ていった。

