「……いらねぇよな、もう。こんなもん」
向坂くんはポケットからペティナイフを取り出した。
そのままそれを川に放り捨てようとしたのだと思う。
しかし、そうはならなかった。
「え……?」
困惑を極め、思わず声がこぼれた。
突如として目の前を過ぎった人影が、そのまま向坂くんにぶつかったのだ。
音もなくナイフが地面に落ちる。
「蒼くん……!?」
人影の正体は蒼くんだった。
ぶつかった、というより、弾みをつけて突き落とした。
不意をつかれた向坂くんの身体は、低い欄干をいとも簡単に越え、宙へ投げ出される。
「向坂くん!」
身を乗り出し、咄嗟に手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。
「菜乃……っ」
私の手は彼の指先を掠め、何もない空を掴むだけ。
向坂くんは阻まれることなく落ちていく。
一瞬の出来事だった。
それなのにスローモーションのようで、ただ見ていることしか出来ない無力感に打ちひしがれる。
飛沫が上がり、波紋と泡沫が揺れた。
一瞬騒がしくなった水面は次の瞬間、嘘みたいに凪ぐ。
何事もなかったかのように光の粒を散らせ、ほぼ完全な静寂が訪れた。
「うそ……」
呟いた声は掠れて溶ける。
ばくばくと心臓が早鐘を打っていた。
浅く不安定な呼吸を繰り返しながら、信じられない気持ちで蒼くんを見やる。
どうしてここにいるのか。
今、どういうつもりで何をしたのか。
聞きたいのに言葉にすらならない。
彼は、はっと我に返ったようだった。
彼も彼でひどく狼狽していた。
「どうしよう、俺────」
青ざめた顔で視線を彷徨わせ、両手を震わせている。
「き、救急車……」
なけなしの理性が働き、私は慌ててスマホを取り出した。
何度も取り落としそうになりながら通報する。
頭も感情も整理が追いつかない。
でも、時間は止まらない。
(もう、こんな終わり方は嫌だよ────)
向坂くんまで失いたくない。
こんなふうにまた生き永らえたって、私には何も残らない。