1.
 人は誰でも懐かしいと思えるような出会いが有るという。 懐かしいと思える家が有る。
その一つにこの家族たちが居た。
 悩みを抱え、問題を抱えていても、ぼくを本当のお父さんだと思ってくれていた家族たちである。

 時移り 人は代われど いにしえの、深き思いに たれか佇む。

 人は死んでも縁を辿ってこの世界に生まれてくる。
時には親となり、時には子となり、時には友となり、そして時には伴侶となって。
でも、この世限りと思っている人たちは縁を辿ることなど思いもしない。
 そんな平凡な人たちでさえ、時には(懐かしい)と思えるような出会いが有るという。
そのような出会いを人々は偶然の出会いだと思ってやり過ごしてしまう。
この世界に偶然などという出会いが有るのだろうか?
もしもそうなら、ぼくらは時のいたずらでひょっこりと生まれたことになる。
そして何もかもが泡沫のように淡く消え去ることになってしまう。
 であるならば、これまでの歴史は何だったのか?
単なる偶然の積み重ねによって日本という国が作られ、ここまでやってきたのか?
 ぼくは一組の親子を通してそれを強く否定したい。
なぜならぼくらは過去に因を作り、縁を結んでこの世に生まれてくるのだから。
 もしもこの世に偶然が存在するのであれば、ぼくらは絶対に会わなかった。
それを強く感じる物語がここに有る。

 盛岡にも空きが来て、そろそろ冬の声が聞こえようかという頃である。
とても風情が有るとは言えないが、中央病院脇の歩道にも枯れ葉が舞い踊り、吹いてくる風がセンチメンタルな雰囲気を醸し出している。
もうすぐ、この空を白鳥が飛び交う季節が訪れるのだ。
ぼくが盛岡に引っ越して何度目の冬を迎えるのだろう?
 そんな中でぼくは勤行をしながらあれやこれやと考えていた。

 ちょうどリーマンショックの煽りを受けて右往左往している時である。
出張する人も随分と減ってしまった。
 第一次安倍内閣が頓挫し、福田内閣が倒れ、麻生内閣も解散総選挙を睨みながらもたもたしている頃だった。
 そして2009年真夏の総選挙で連立与党が大敗北し、民主党が政権を取ったのであった。
「連立与党にお灸を据えろ!」 奇妙な民主風が吹き荒れていた。
 その頃のぼくは出張マッサージと訪問マッサージを掛け持っていた。
昼間は訪問マッサージで高齢者の家を訪ね、夜は出張マッサージでホテルを回っていたのだ。

 ところがリーマンショック直後からホテルの仕事は激減し、予約が入っても指名は女性ばかり。
「俺たちさあ、胸にアンパンを入れて女装しようか。」などと本気で話し合ったほどである。
ついには仕事が無くなってしまって出張マッサージは無くなってしまった。
 訪問マッサージのほうも事業者の不正が明らかになり、廃業してしまったのだ。
それでぼくは思い切って生活保護を受けることにした。
そんな時の出会いである。

 (あの人はいったいどういう人なのだろうか?)
(あの娘たちは果たして話すことが出来るだろうか?)
(もしも結婚するとなればどんな暮らしになるのだろう?)
(そして仕事をするとしたらどんな形になるだろう?)

 勤行を済ませたぼくは四畳ほどの小さな部屋を出て、タクシーで盛岡駅へ向かった。
 「何処かお出掛けですか?」
タクシーの運転手が聞いてきた。
「ええ。 これから北海道へ行くんです。」
「何ゆえに北海道まで?」
「ネットで知り合った人が居るので会いに行くんですよ。」
 15分ほどで駅に着いたのはいいのだが、緊張しているからかホームに出ても落ち着かない。

 「まもなく八戸行きハヤテ号 発車いたします。」
ホームに発車のアナウンスが響いた。
2010年10月29日、ぼくは初めて北海道へ向かったのである。

 盛岡へ引っ越した時、ぼくはここで一生を終えるものだと思っていた。
それが函館まで行くのである。
出会いとは本当に分からないものだ。
 その時、ぼくの脳裏を掠めた物が有った。
細木数子のサイトで占った時に読んだコメントである。
 『東北の方向へ行けば一生の宝を得るでしょう。』
(一生の宝って何だろう?)
 不思議には思ったが、まさか自分が函館にまで行くことになろうとは思わなかった。

 「やつらはお前の命まで狙ってくるぞ。」
妹たちが引き起こした結婚詐欺の行く末を案じた友人 高橋博則の助言を受けて盛岡へ引っ越し5年が経とうとしていた。
 当初、ぼくらはクリスマスに会う予定にしていた。
でもそれでは親とゆっくり話すことが出来ないかもしれない。
そこで予定を変更して10月に会うことにしたのだった。

 『もうすぐ動くからね。 待ってて。』

 ぼくは座席に落ち着くとメールを送った。
相手はGREEで知り合った西山加奈子である。
彼女に会うための旅がいよいよ始まるのである。
 新幹線は動き始めた。
とはいえ、八戸で東北本線の特急 スーパー白鳥に乗り換えるまでは何も出来なくて暇である。
 思えば〈赤いスイートピー〉で歌われてから28年。
やっと東北新幹線に乗ったのだ。
 あの頃、ぼくは中学生だった。
しかも緑内障と先輩の暴力で失明した直後である。
生まれつき、視力が弱かったぼくは盲学校に通っていた。
そこで激しい虐めにも遭い、終には失明したのである。
これほどの皮肉も無いだろう。
 その頃のぼくは施設に預けられていた。
網膜剥離を起こし、失明を疑われてから学校を休んでいたのだが、居室で寝ていてもしょうがない。
そう思って実家にとりあえず帰ってきたのだが、祖母はぼくを見て唾を吐いた。
 「お前は私のお荷物だ。 恥ずかしいから死ね。」と。
 生まれてしばらく不思議にも可愛がってくれていた祖母が失明したぼくを見て変わったのである。
 実家に戻ってもぼくはただ寝ているしかない。
そんなぼくに祖母は毎日辛く当たるようになってしまった。
 ずっと寝ているのをいいことに祖母は朝食すら作らずに仕事に出掛けてしまうのである。
 腹を空かせたぼくは、食べられそうな物を探し回って食べていた。
 それに気付いた祖母はぼくを見て泥棒と呼んだ。
 それに渋い顔をしたのは祖父である。
「飯くらい用意してやればいいやんか。」と忠告するが、祖母はまるで聞いていない。
毎日がこうだから実家の雰囲気まで悪くなってしまった。

 ちょうど年末である。
年末と言えば親戚がドッと集まる時期でもある。
ところがそこにもぼくは呼ばれなかった。
 みんなが賑やかに食事をしていてもぼくは暗い部屋で悶々とするしか無かった。
「あいつも呼んでやれよ。」
祖父はいつもの通りに忠告するが、祖母はここでもだんまりを決め込んでいたのである。
「あんな厄介者は要らんの。 死ねばいいんだ。」
どうしたらこうなるのか、ぼくには分からなかった。