「他にはあらぬのか?」

 と、悠仁采は偽名のことは責めずに、月葉が言いたいことだけを促した。

 ほどなく月葉の表情が強ばり、生唾でも呑み込むように細い首が波打って、次第に高揚感が彼女を襲う。

 果たして顔が蒼白に変わり、悠仁采は察した。

「言い憚ること、記すことならぬ」

 先刻の約束事を繰り返す。

 月葉ははっとして彼の面持ちを見詰めたが、ゆっくりと向き直り、白い表面に黒い滲みを作った。

「言い憚ること、記すことならぬっ!」

 とっさに彼は月葉の右手を握った。やや色黒な大きい強い手である。温かな優しい激しい手──月葉の心の(しこ)りが少しずつほどけていくように、彼女の表情も少しずつ崩れていった。

「分かっておるのだ……書かずとも良いのだ……」

 そんな言葉を悠仁采は数回繰り返した。

 彼女の頬を優しく撫でてやる。熱を保ち、凍ってしまった涙を溶かしてくれるそんな手。

「もう……良いのだ」

 ──悠仁采様……。

 胸の中で包んでもらう。温かな手を持った人の胸はどれほど温かであろうか。

 ──悠仁采様……。

 月葉は涙が涸れるまで泣いた。

 声のない、けれど激しい苦しいまでの嗚咽(おえつ)で──。