難しい譜面の音色が近づくに連れて,私の心音は加速する。

ちはやは意外にも全速力で走ってくれているらしかった。



「ちはや,ちはや」



ちはやは減速する。

私の瞳から溢れていく水滴を見て,動きまで止めた。

ぶら下がる私は,そのまま喋り続ける。



「どうしよう,どうしよう……私,なにも分からなかったら,お兄ちゃんがとてつもなくひどい目にあってたら」



こんな時に限って,武器を忘れた。

ナイフも銀の弾丸も,何一つない。

私の心を守るものも,ない。



「知るかよ。何があろうと,浅海は俺が見つけた俺のもんだ。どうせ逃げられねぇんだから,諦めろ」



また,私に諦めろと言う。

でも私はちひろのものになった憶えもなければ,最後に誰のものになるかはとうに決まっていた。



「……うん」



それでも,嘘でも頷いてしまった私は。

いつまでたっても,嘘つきな運命から逃げられないみたいだった。

いつの時代も,ヴァンパイアは人の心を惑わせる。

分かっていたのに……私はもう,囚われてしまった後だった。