大会前日。最後の練習を終え、帰宅の途に着こうとした尚輝に


「お疲れ様でした。」


と声を掛けて来たのは千夏だった。この日は彩は仕事で不在、試合当日も仕事で、駆け付けられないのを残念がっていた。


「いよいよですね。」


「ああ。ここまで来たら、全員悔いのないように試合に臨んで欲しい。」


「そうですね。」


千夏は相槌を打つと、改めて尚輝の顔を見た。


「ところで先生。まさか、私との約束、忘れたわけじゃないですよね?」


千夏の言葉に、驚いて彼女の顔を見る尚輝。


「あれからそろそろ1ヶ月以上経ちますけど。」


そう言って、自分の顔を覗き込むように見てくる千夏に、ややたじろぎながら


「忘れたわけじゃない。でもな、あの時も言ったが、自分の気持ちに素直になれって言われても、言葉で言うほどで簡単なことじゃないんだ。そうすることで、他の誰かを傷付けたり、迷惑を掛けることだってあるんだぞ。」


ボソボソと言い募る尚輝に


「そんなこと、私だってわかってるつもりです。でも少なくとも先生が今、自分の気持ちに素直になって、傷付いたり迷惑を被ったりする人って誰ですか?少なくても私には見当たりません。」


呆れたように千夏は言う。


「葉山・・・。」


「京香先生は一歩を踏み出した、先生の為に。だから、先生も負けずに一歩を踏み出して下さい。」


訴えるような千夏の言葉に、尚輝は思わず表情を歪める。しばし見つめ合った2人・・・やがて尚輝は、1つため息をついた。


「情けねぇ。」


「えっ?」


「これじゃどっちが教師で、どっちが教え子か、わかんねぇだろ。」


自嘲の言葉を吐いた尚輝に


「別に私は先生の為じゃなく、自分の為に言ってるだけですから。だって、先生が前に進んでくれないと、私も先に進めないんです。私が困るんです。」


千夏はそう答えると、少し切なそうな表情になる。その顔を見た尚輝は


「なぁ、葉山。俺って、そこまで、お前に想ってもらえる程、価値がある男か?」


思わずそう口走っていた。


「はい。罪作りな人ですよ、先生は。」


「葉山・・・。」


「でも先生は尊敬できる恩師で先輩で・・・そして大好きな人。それは、これからも私の中では変わらない。私は先生を好きになったことは、絶対に後悔しません。その思いを胸に、私はこれからも前を向いて歩いて行きます。だから・・・。」


「わかったよ。ありがとうな、葉山。」


「はい。先生、これからもよろしくお願いしますね。」


「こちらこそ、な。」


泣き笑いの顔で、そんなことを言って来た教え子の頭を、尚輝はそっと撫でていた。