颯天高が新たな顔を迎えて、新学期を迎えてから、3週間ほどが過ぎようとしていた。入学式に先立ち、始業式が行われた日、新年度の学年担任の発表や新任教諭の紹介、更には異動、退職した教諭の案内があったが、退職者の中に菅野京香の名前があった時は、生徒の間から少しどよめきが起こった。


春休み中に発令される人事異動と違い、退職は事前にわかっていることが多いので、クラスを受け持ったり、部活の顧問を務めている場合、前年度中に本人からは発表や挨拶があることが多いが、京香からは何もなかったからだ。


もっとも必ずそうだというわけではなく、「一身上の都合」という通り一遍の発表のあと


「絵の勉強の為に、留学したんだって。」


という理由がまもなく流布されると共に、あっという間に、彼女の不在が話題に上ることはなくなっていた。


そんな中、尚輝もまた、新年度、新学期を迎え、2年生の日本史担当教諭、2年B組の担任、そして弓道部顧問として、精力的に職務に励んでいた。


だが、絶対に外には見せなかったが、その胸中には、ぽっかり大きな穴が開いてしまっている。京香の突然の退職と海外留学は、高校以来の2人の恋愛関係に終止符が打たれたことを意味し、その喪失感は、当たり前だが容易に埋められるものではなかった。


「尚輝の心の中に本当にいるのは彩さん。これ以上、自分の気持ちに嘘をついている尚輝と一緒にいるのは辛過ぎる。」


その言葉を京香から告げられた時、尚輝は愕然とした。そして、話し合う余地も、引き留める暇も与えてくれないまま、彼女はほぼ一方的に別れを告げて、自分の前から姿を消した。


京香がいつ日本を立ち、どこの国に行くのかすら、尚輝は聞かせてもらえなかった。それでも諦めず、彼女に電話をし、SNSで連絡を取ろうとした。電話の呼び出し音は鳴り、SNSのメッセ-ジは間違いなく今も届いている。でも彼女からの返信は、


『今飛行機の中、まもなくフライトです。尚輝と過ごした時間は、私の中では、かけがえのない大切な宝物です。私はあなたと出会えて、本当に幸せでした。これから私は、あなたからもらった宝物を胸に、自分の夢に向かって突き進んで行きます。だからあなたも、あなたが本当に大切にしたい人、しなきゃいけない人の側に居てあげてください。』


この日本を離れる寸前に送られて来た、たった1通のメールだけだった。