執務室には明かりがともっていた。
 レヴィアがベッドに入っている時間にも関わらず、夫は夜遅くまで仕事をしているようだ。

 朝は早く出発し、領地に戻ってきてからも遅くまで仕事。きっとタウンハウスでも同じような生活リズムで過ごしているのだろう。

(ご無理をなさってなければいいのだけれど……)

 自分の父が家の存続のために無理をして体を壊してしまったことを思い、レヴィアは心配になった。

 覗き込んだ部屋の中には、誰もいない。
 彼も仕事を終えて寝る時間なのかもしれない。今日はタイミングが悪かったのだと立ち去ろうとしたとき、部屋に入って来た者と目が合った。

 セイリスだ。

「お前、また来たのか」

 満面の笑みを浮かべながら、早速窓へと寄ってくる。レヴィアに気をつけながら窓を開けようとする姿は、別人を疑ってしまうほど違い過ぎる。

 やはり夫の豹変は夢ではなかったと思いながら、レヴィアは部屋の中に入り、執務机の上に飛び乗った。

 前回逃げた猫が部屋に入って来てくれたのが嬉しいのか、セイリスは終始ニコニコ顔だ。

「腹は減って――いや、お前のご主人が餌をやり忘れるわけがないな。勝手に餌をあげるのも何だから水でもやろう」

 自己完結したセイリスは、近くにあったグラスに水を注ぐとレヴィアの前に置いた。

 グラスも水も綺麗で、問題無く飲めそうだ。
 レヴィアはグラスの中の水に口をつけた。猫とはいえ、できる限りピチャピチャしないように気をつけて飲む。

 これでも一応、人間なのだから。

 机の上で水を飲む猫を、椅子に座り、頬杖をつきながらじっと見つめるセイリス。

(いっ、居心地が悪すぎる……まさか、バレてないわよね?)

 彼の射るような視線が居たたまれず、レヴィアは水にだけ意識を集中させた。さっさと飲み終えて、赤い視線から逃れようとしたのだが、

「お前、行儀がいいな。やはりペットは飼い主に似るものだな。お前の主人もとても綺麗に食べるからな。それにいつも美味しそうな様子で……一緒に食べているこちらも楽しくなる」

 不意打ちで褒められ、飲んでた水を吐き出しそうになった。

(え? 私と一緒に食事をとることを楽しんでいらっしゃる? 一体どこに楽しんでいる要素があったというの⁉)

 もちろん、食事中のセイリスは相変わらずの氷壁ぶりだ。ほとんと会話など交わさないし、あの顔の下にレヴィアとの食事を楽しんでいる姿があるなど、想像できなかった。

 もし彼の言葉が本当なら、どれだけ分厚い氷壁なのだろう。

 レヴィアが困惑している間に、夫は櫛を手にしていた。目がとても細かくて、上質な物なだと一目見て分かる代物だ。

「櫛で梳いて、ノミを取ってやろう」
(ノミ⁉︎)

 ぎょっとした瞬間、背中の毛に櫛が入れられた。
 ゾクっとした感覚が全身に走る。

 もちろん、人間であるレヴィアにノミはいない。
 しかしレヴィアをただの猫だと思っているセイリスは、レヴィアの首の後ろを動かないように押さえながら手慣れた様子で何度も背中を梳いていく。

 こそばゆい感覚に全身から力が抜け、お腹を机につけて伏せる体勢になってしまうレヴィア。だがセイリスは、ブラッシングが気に入ったと勘違いしたようで、背中だけでなく、横の腹や頭まで丁寧に梳いていく。

 初めは身を固めていたレヴィアだったが、強くも弱くもない絶妙な感覚で梳かれ続けるうちに、何だか心地よくなってきた。梳かれる場所に合わせて、何となく体勢も合わせてしまう。
 
(ううっ……櫛で梳くの、上手すぎませんか?)

 ニーナに髪を梳いて貰っても、こんなに心地が良いとは思わないのに。
 
 セイリスは梳いた櫛を見ると、納得したように一人頷いた。

「ノミはついていないようだな。ご主人に大切にして貰っているからだろうな。毛並みも、こんなに艶々として綺麗だしな……」

 大きな手がレヴィアの頭を優しく撫でたかと思うと、彼の顔が近付いてきて――

 ポフッ

(おさっ、え? お、さっ、収まっちゃった⁉ えっ、ええええええ⁉)

 夫の顔が、レヴィアの横っ腹に埋められている。
 大きく鼻から息を吸い込み、はぁーっと吐き出しながら……

 匂いを嗅がれている。
 そう認識した瞬間、ウトウトしていたレヴィアの意識が一瞬にして覚醒した。頭の隅にある《《とある知識》》が思い浮かぶ。

(こ、これは……猫吸いというものでは⁉ 猫好きの人が、飼い猫に顔を埋めて匂いを嗅いで、幸せな気持ちになるという……)

 正直、猫を吸ったことのないレヴィアには分からない世界の話だ。以前ニーナに抱っこされ、スリスリされたことはあるが、さすがに吸われたことはない。

 驚きのあまり固まってしまう。
 その間にも、セイリスの猫吸いは続いた。

 恐らく時間的には一瞬だったとは思うが、果てしなく長い時間に思えた。

「……癒される。お前、石鹸の良い匂いがするな」

 満足そうにセイリスが顔を上げた。声だけでなく、表情も満たされたという気持ちが前面に出ている。

 氷壁どこ行った? と問いたくなる。

 間違いない。
 
 ここにいるのはただの猫好きだ。
 猫吸って癒やされるぐらい、猫好きな男だ。

 小さな体の中で、心臓が恐ろしいほど速く脈打っている。このままだと、血の巡りが良くなりすぎて倒れてしまいそうだ。

 だが、

「この間お前のご主人から、名で呼んで欲しいと言われたんだ」

 ボソッと呟いたセイリスの言葉に、レヴィアの心臓が飛び出しそうなくらい強く高鳴った。大きな手がレヴィアの背中を撫で、彼の口からクスっという笑いが洩れる。

「それに、あの彼女が噛んで、『にゃ』とかいってて……」
(忘れてっ‼ 今すぐ忘れてくださいっ‼)

 恥ずかしい噛み方をしたのを思い出し、レヴィアは心の中で叫ぶと同時に、立ち上がってセイリスと向かい合った。

 頬を真っ赤にした夫と目が合う。
 セイリスは、こちらの様子を見る猫としばらく見つめ合っていたが、肘を執務机の上につけて両手で顔を覆いながら、はぁーっとクソでかため息をついた。

 か細い声で囁く。

「……可愛かった」
(か、かかかか、かわっ、可愛い⁉)
「何だあれは……ずっと仕事に手が付かなかったぞ。お陰で屋敷に仕事を持ち帰ることになってしまった……」
(え? 今の今までお仕事されていたのは、私のせい⁉)
「あの時のことを思い出すたびに、心臓の動きが何だかおかしかったが、まあ大丈夫だろう」
(もうそれは医者にかかるべき事案では⁉)
「あの件から四日も会えなかったとか……苦行すぎるだろ……」
(私は存分に羽を伸ばしてましたなんて、言えない……)

 息も絶え絶えになっているレヴィアだったが、覆っていた手を下げて現れた氷壁に、言葉を失う。

「……彼女に迷惑をかけたくはない。これは互いの利害が合致した結婚。私の想いは彼女の重荷になる。それに――」

 セイリスは頭を抱えて俯いた。
 吐き出された声は僅かに震えていた。

「私に……血を残す資格などない」