レヴィアはいつもよりも早く目を覚ました。というのも、セイリスがタウンハウスに発つ前に会っておきたかったからだ。

 彼が戻ってきている情報は、本来もっていないもの。
 たまたま早起きしたらセイリスと鉢合わせをした、という状態なら疑われないと思ったのだ。

 とはいえ、レヴィアが身支度を終えた頃には、すでに馬車が用意され、使用人たちが主を見送る状況だった。

「セイリス様っ!」

 馬車に乗ろうとした夫の背中に声をかけると、彼の足が止まり、こちらを振り返った。

 金色の髪が揺れ、眩しいばかりの光を投げかける。朝日に照らされた姿は、息を忘れてしまうほど美しい。

 何故女性に事欠かない夫が、こんな自分を選んだのかと、改めて疑問に思う。

(まあ……子どもを持たないという同じ目的があったからなのだとは言われたけれど)

 それだけが自分と夫の繋がりだと思うと、何故か心の奥がチクっと痛んだ。

 セイリスはレヴィアの姿を見ると、ゆっくりとした足取りでこちらにやってきた。領地に戻っていたことを妻に見つかったというのに、驚きも気まずさもない。

 徹底した氷壁っぷりだ。昨日のあれは夢だったのでは、と自身の記憶の自信がなくなりそうだ。

 少し距離を取った場所から、セイリスが声をかける。

「こんな朝早くに起きていたのか?」
「え、ええ……たまたま早くに目が覚めて、外を見たら馬車が用意されていたものですから、もしかしてと思い……」
「そうか。私はこれから王都に戻る。あなたは部屋に戻りまだ休んでいるといい」

 いつものやりとりだ。
 微塵も愛情が感じられない、淡々とした声だ。

 昨日までの自分なら彼に恐怖を覚え、引き下がっただろう。だが昨夜の光景が――優しい表情で自分を気遣う夫の姿が、レヴィアを突き動かした。

「で、では……一つお願いがあるのです」
「ならグラソンに――」
「いいえ、あなた様でなければならないことなのです!」

 今まで、こんな強い口調で夫に話しかけたことはない。

 心臓がこれ以上ないほど激しく脈打っている。レヴィアはギュッと手を握ると、勇気を振り絞った。

「あっ、あの……名を……」
「名?」
「【あなた】ではなく、私の、にゃっ、名を呼んで頂けないでしょ、うかっ!」

 緊張のあまり、恥ずかしい噛み方をしてしまう。

 セイリスからの返事はない。
 もしかして肝心なところで噛んでしまったため、ちゃんと聞こえなかったのかもしれないと不安に思ったとき、

「分かった。あなたがいいなら、そうしよう」

 そう言ってセイリスはレヴィアに背を向けた。もう出発の時間なのだろう。

 遠ざかる夫の背中に頭を下げながら、名を呼んで貰えなかったことに、僅かに肩を落とす。が、

「わざわざ見送りに来てくれてありがとう、レヴィア」
「えっ?」
「では行ってくる。留守を頼んだ」

 慌てて顔を上げた時には、馬車のドアが閉まっていた。

 馬車が動き出す。それをレヴィアも含めた皆が、深く頭を下げて見送った。

 夫の言葉はいつもと同じ、感情を感じさせない冷たい声色だったはずだ。だが初めて自分の名で呼ぶ夫の声に、今までにない温かさを感じていた。