(何なの、あれは……いつもと全然違うじゃない!)

 あのセイリスが、執事であるグラソンに口で負けている。何を言われても表情一つ変えない夫が、執事の前では慌てたり怒ったりしている。

 あまりにも衝撃的すぎる光景だった。

 二人は昔からの付き合いだと聞いている。表向きは、主と執事としての適切な距離と態度を保っているが、実は仲がとてもいいのかもしれない。

 先ほど交わされていた二人の会話が思い出される。

(私を何と呼んで良いか分からない? 恋愛ベタ? あれだけ求めた方をようやく伴侶にできた? ど、どういうこと?)

 頭の中に、大量の疑問符が浮かんで消える。

 セイリスはレヴィアに、お飾り妻として必要最低限のことをすればいいと言った。
 子どもも求めないため、夫婦生活も必要ないと言った。

 そう語る夫の表情は、氷のように冷たくて――

 なのに今の彼はどうだ。

 氷壁?
 ドロッドロに溶けているではないか。

 顔なんて、火が噴き出すんじゃないかと思えるくらい真っ赤だ。

 恥ずかしさを吐き出すように、セイリスが大きすぎるため息をついた。右手で額を押さえながら双眸を閉じ、

「……会いたいに決まってるだろ。彼女の顔を最後に見てからどれだけ経ってると思う?」

と呟いた。

(彼女って……私のこと?)

 話の流れ的にはそうだろうが、セイリスと最後に顔を合わせたのは二日前。まるで何年も会っていないような声色で言われ、さらに困惑してしまう。

 ちなみにレヴィアは、セイリスがいない時間、存分に羽を伸ばしていたわけだが。
 この温度差は一体なんなのだろうか。

 レヴィアの視線に気付いたのか、セイリスはゆっくりとこちらに近付いてきた。そしてしゃがむと、できる限りレヴィアと目線を合わせようと体勢を低くした。

「お前は、レヴィア嬢の飼い猫だったのか。ご主人はもう寝たのか?」

 ニャッ、ニャー……

 とりあえず肯定の意味で鳴いてみる。
 驚いたのはセイリスの方だった。まさか猫が自分の呟きに答えてくれるとは思っていなかったのだろう。

 初めて彼と会ったとき、恐怖を覚えた鋭い瞳が優しく細められた。いつもならピクリとも動かない口角が上を向く。

「お前は私の言っていることが分かるのか? ご主人に似て賢いんだな。なら――」

 彼の指がレヴィアの首の下を優しく撫でた。
 
「ご主人は……この屋敷で楽しく暮らせているか?」

 優しく囁かれ、レヴィアの心臓が跳ね上がった。別人かと思われるほどの甘さを纏った声色に、小さな心臓が激しく鼓動を鳴らす。

(私を、賢いと……)

 そんな風に評価されているなど、想像だにしていなかった。

 グラソンからはいつも大丈夫だと言われていたが、セイリスからの評価がなかったため、きちんと侯爵夫人としての役割を果たせているのか不安だったのだ。

 今度は返事をしなかったせいか、セイリスの表情が陰った。しかし、すぐさま口元を緩めると、

「お前の目は、ご主人と同じ金色だな。毛並みだって、ご主人様と同じ艶やかな黒毛だ。本当に綺麗だ。まるで、彼女が側にいてくれているような気になる」

 そう言って微笑みながら、レヴィアの首の下をスリスリと撫で、

「……彼女に会いたい」

と囁いた。

 次の瞬間、レヴィアは開いていた窓から外に飛び出していた。後ろからセイリスの声がしたが振り返らず、そのまま自室の窓から中へと飛び込み、ベッドの中に潜り込んだ。

(何なの? あれは一体何なの⁉︎ 本当に私の知っているセイリス様なの⁉)

 と心の中で叫びながら。