このまま一目散に逃げても良かった。
 だが、

「夜の散歩か? でもまだ外は寒いだろう?」

 セイリスがチッチッと舌を鳴らしながら、めっちゃ笑顔で手招きしてきたのだ。

(ど、どういうこと? いつもは笑顔どころか、表情一つ変えないのにっ‼)

 今までの彼の様子を思うと、ありえない光景だった。
 実は別人です、と言われた方が、まだ信じられる。

 レヴィアは警戒感を強めながら執務室の中に入ると、彼の足元をするっと抜けていった。横切っていった黒猫を見て、笑顔だったセイリスが、困ったように唸る。

「警戒してるようだな。尻尾が膨らんでいる」
(猫についてよくご存じで‼)

 猫は尻尾の様子や動きで、機嫌が分かる。どうやらレヴィアの気持ちが、思いっきりしっぽに出てしまったようだ。

 だがそんな猫知識、猫を飼っている者か、猫好きぐらいしかもっていないだろう。少なくとも、目の前の氷壁の侯爵様が知っているとは思えなかった。

 セイリスは机の呼び鈴を鳴らした。
 すると、

「お呼びですか、旦那様」

 やって来たのは、執事のグラソンだ。セイリスと同じ歳だったはず。主と同じくスラっとした長身で、長い茶色の髪を綺麗に一つにまとめている。

 屋敷の管理について、よくグラソンと相談するため、夫よりも関わり合いの多い人物である。華やかな容貌をもつセイリスとは違い、落ち着いた雰囲気を纏った男性だ。

 グラソンの問いかけに、セイリスは一つ頷くと、絨毯をうろうろしているレヴィアを指差した。

「この猫に、ミルクを出してやってくれ。もしあるなら、何か食べ物も」
「承知しました――って、この猫、もしかして奥様の飼い猫では?」

 グラソンの黒い瞳がレヴィアに向けられ、尻尾が驚きで膨らんでしまう。

(そうだったわ。猫になった私が見つかっても追い出されないよう、飼い猫を連れて行きたいとお願いして、了承して貰ったんだったわ! こちらが世話をするから迷惑は掛けないと言って……)

 グラソンにどんな猫を連れていくかは伝えていないが、輿入れの際に黒猫のぬいぐるみを籠に入れていたため、そのときに見たのだろう。

 執事の言葉を聞き、セイリスが瞳を大きく見開いた。

「レヴィア……嬢の飼い猫? 彼女は、猫を連れてきていたのか?」
「はい。とはいえ輿入れ後、一度も猫の姿を見た者がいなかったので、逃げてしまったのかと噂しておったのですが……って、夫婦になったというのに、まだあの方をレヴィア《《嬢》》と呼んでいらっしゃるのですか? それに本人の前では、あなたとか言って名前すら呼んでいないようですが」

 クスクスと笑うグラソンに、セイリスは唇を尖らせた。頬を赤く染め、彼から視線を逸らす。

「し、仕方ない……だろ。いざ夫婦になったら、何と呼んでいいのか分からん」
「普通に、呼び捨てされたら良いだけでは? あなた様のような優秀な方が、自分の妻を呼び捨てにできないなど、理解しかねますがね。それに久しぶりに領地に帰って来られたのですから、奥様にお会いになられたらよろしいじゃないですか」
「もう寝てるのだから、起こすのは可哀想だ」
「本当は今すぐにでも奥様の部屋のドアを叩きたいくせに」
「……黙れ、これ以上茶化すとクビにするぞ」
「では、さっさと荷物をまとめてきますね」
「じょっ、冗談に決まってるだろっ‼」
「分かってますよ。はぁ……あなたのどこが【氷壁の侯爵】なんでしょうね? 本当はこんなに素直で恋愛ベタな御方なのに……」
「……さも褒めているような言い方をするな」
「最大級の褒め言葉ですよ? ほら、奥様の飼い猫にこれだけ素を出せるのですから、奥様にも同じように素直になってください。あれだけ求めた方をようやく伴侶にできたのでしょう?」

 そう一方的に言うと、グラソンは笑いながら部屋を出て行った。

「……あいつ!」

 パタンと閉じた扉に向かって、セイリスが吐き捨てる。

 二人のやりとりを妻がすぐ側で、口を半開きにしながら見ていることも知らずに。