「良かったらあなたを、だ、抱きしめても、いいか?」
「それは聞くのですね。さっき、あんなことをしたのに?」
「あ、あれはっ! あなたが煽るから……」

 可哀想なくらい動揺する、元氷壁の侯爵様。
 少し悪かったかな、と思ったレヴィアは立ち上がると、セイリスに向かって両手を広げて見せた。

「さあ、どうぞ。ドーンと飛び込んでください!」
「ドーン……」

 抱きしめる相手を、自分の弟妹だと思っているかのような態度に、セイリスは苦笑しているようだった。

 しかし僅かに口元を緩めると立ち上がり、両手を広げて待つレヴィアを抱きしめた。

 上半身が温もりに包まれ、金色の髪が耳元をくすぐる。
 セイリスの顔がレヴィアの首筋に埋められたかと思うと、大きく息を吸い込み、吐き出される音がした。

 彼の唇が耳元に寄る。

「あなたから、猫と同じ良い匂いがする」
「も、もうっ、猫の時のように吸わないでください!」
「猫……ああ、つまり私は、人間に戻れば全裸だったあなたの横っ腹や背中を吸っていたわけだな。あなたはそれを、私に許していたわけだ」
「なっ、何を言ってるんですか‼ べ、別に許していたわけじゃ……」

 否定するレヴィアの顔は、これ以上ないくらいに真っ赤だ。

 しかしセイリスの言うことにも一理ある。
 毛で覆われているとはいえ、人間に戻ったレヴィアは何も衣服を身につけていない――つまり裸。

 人間に置き換えて考えると、非常に卑猥な光景だと言えるだろう。
 セイリスの行動は、レヴィアを猫だと思っていたから仕方ないとして、それを許していたレヴィアは……

(私は、トンデモない痴女なのでは?)

 今更になって酷く後悔するが、時既に遅しだ。

 またセイリスがレヴィアの首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込んでいる。その息づかいに苦しくなるほどの恥ずかしさを感じながら、レヴィアは精一杯の強がりを見せた。

「ま、まあ、あなた様が癒やされると仰るから? だから仕方なく許していただけで……でも猫吸いがお好きだなんて、セイリス様は変わっていらっしゃいますね?」
「ああ、そうだな。あの猫からは、あなたが使っている石鹸の匂いがしたからな。あなたが側にいる気がして、いつも癒やされていた」
「えっ?」
「強いて言うなら、猫の匂いというより、あなたの匂いが好きなのだ」
「なっ‼」

 何と反論していいのか思いつかず、口をパクパクしているレヴィアに畳みかけるようにセイリスが囁く。

「これからは、堂々とあなたを吸える」
「だ、駄目です! 吸うのは禁止です‼」
「そうなのか? 夫婦なのに?」
「夫婦ですけど、駄目です‼」

 セイリスの体を引き離そうとしたが、なぜか彼は腕の力を緩めようとしない。むしろさらに力をこめられ、互いの体がますます密着する。

 話し合いを始めた頃にあったはずの物理的距離感が、急におかしい。

(なっ、なに? 私がさっき揶揄うようなことを言った仕返し⁉︎)

 焦りと戸惑いを隠しつつ、見た目よりも厚い胸板をグイグイ押しながら、レヴィアが訊ねる。

「あ、あの、そろそろ離して頂けませんか? 何だか急に互いの距離が近くなってません?」
「そうか? そういえば以前グラソンから、『あなたは相手に心を開くと、急に距離感がおかしくなるので気をつけてください』と言われたことがあったが、私は常に相手との距離感を見誤らないように気をつけている。大丈夫だ」
「見誤ってます! 完全に見誤ってますからっ‼」

 自分は正しいとキリッと言い切ったセイリスに、レヴィアは思いっきり突っ込んだ。

 どうやら夫は、親しい相手となると、保つべき距離感を思いっきり見誤るらしい。タチが悪いのは、それを自身が気付いていない部分だろう。

 セイリスとの関係を、ゆっくりと育てていきたいと思っているのに、急にこんなに距離を詰められ、無自覚にこちらの心を揺さぶって来られると、育つものも育たない。

 ただでさせ、こんなに綺麗な顔で愛情に満ちた笑みを向けてくるのだから――

「ど、どうかなさったのですか? 凄く嬉しそうなのですが……」
「ああ。あなたとこうして心が通じ合い、もうこの気持ちを隠す必要がないのが嬉しくてな。それに――」
「それに? 何でしょうか?」

 他に何があるのかと問うレヴィアに、セイリスはニヤッと口角を上げた。

「あなたが呪い持ちだったことで、養子をとる必要がなくなった」