「……グリスタ卿か」

 セイリスが憎々しげに呟いた。

 グリスタ卿――父への援助を借金だと言い張り、レヴィアを連れて行こうとした貴族。
 この件がきっかけで、レヴィアはセイリスの妻となったのだ。
 
 もちろん相手が言う借金は、全てアイルバルト家が肩代わりしてくれた。

 だが終わったと思っていたのは、レヴィアたちだけだったようだ。
 相手の目的は、借金の返済ではなくレヴィアだったのだ。獲物を横取りされたことで、グリスタ卿はセイリスに恨みを抱いたのだろう。

 それが今回の襲撃事件へと発展したのだ。

(私が……私があの時、セイリス様の手を取ったから……)

 激しい後悔が、懺悔の言葉と涙となってレヴィアの瞳と唇から零れ落ちる。

「ごめんなさい……わたしが……私があなたに嫁いだから、こんなことに……」
「あなたは、何も悪くない……」
「しかし、遺恨を残したせいで、あなた様がこんな酷い目にっ‼」

 涙を流しながら叫ぶレヴィアに向かって、セイリスはゆっくりと首を横に振った。
 人々から氷壁だと称された顔には、優しい笑みが浮かんでいた。

 夫の笑顔に息を飲む。

 首筋に剣を突きつけられているとは思えない、穏やかな声がレヴィアの耳に届いた。

「私は、あなたを妻にしたことを後悔してはいない。今この瞬間も――」

 微笑んでいたセイリスの表情が、心の内を感じさせない氷壁へと変わる。ただ赤い瞳だけは鋭さを増し、レヴィアを捕まえている男に向けられた。

「だからあなただけは守る。その結果……あなたを失うことになっても」
「うしな、う……?」

 彼の言葉の意味が分からず、言葉の一部を口の中で反芻した瞬間、セイリスの姿が消えたのだ。残ったのは、彼が身につけていた服だけ。

 レヴィアは突然のことに言葉を失い、男達は騒ぎ出した。

「どこだ⁉ あの男、どこに消えたんだ‼」

 男達が怒鳴りながら周囲を見回している中、レヴィアは地面に残されたセイリスの衣服を見つめていた。

(この光景、どこかで見たことが……あっ!)

 脳裏に浮かんだのは、自分が猫になったとき、身につけていた衣服が脱げ、床に広がる様子。

 突然消えたセイリス。
 残った衣服。

『私に……血を残す資格などない』
『バケモノである私に――』

 猫になったレヴィアの前で、辛そうに呟くセイリスの言葉が蘇る。

 とてもよく似ていた。
 何故、今まで気付かなかったのかと疑問に思うほどに――

(まさか……まさかっ‼)

 結論にたどり着いた瞬間、それは現れた。

 レヴィアの前に、黒い影が落ちる。
 それほど、それは巨大だった。

「な、なんだっ‼ 何でこんなものが、ここにっ‼」

 男達が恐れおののき、中には腰が抜けたのか地面に尻餅をついている者もいる。それほど目の前のそれは、この場に居る者たちに畏怖を与えるには充分な存在だった。

「金色の……竜」

 存在を確認するように、レヴィアが呟く。

 竜は長い尻尾を揺らし、花を四足で踏み潰しながら、ゆっくりと男達に近付いた。

 口の隙間から見える歯は、人間など簡単に食い千切れるほど鋭利だ。全身は金色の鱗で包まれており、動く度に太陽の光に反射して輝いた。背中には、折りたたまれた翼がついている。きっと空も飛べるのだろう。

 竜は大昔に存在したと言われる生き物だ。
 まれにそれらしき存在の骨が見つかることもあるが、今では伝説上の生物とされ、書物などに描かれた絵でしかその姿を見ることはない。

 まさかそんな伝説級の存在が、目の前に現れるとは。

 金竜が口を開いたかと思うと、天に向かって咆えた。辺り一帯の空気が震え、ビリビリとした振動が体に伝わってくる。

 そのとき、何かがレヴィアの視界の端を横切ったかと思うと、竜の足下に地面に落ちた。

 良く見ると弓矢だった。
 男達の一人が放ったのだろう。
 
 しかし鋭く尖っていたはずの矢じりの先は、へしゃげていた。恐らくこの調子では、男達が持っている武器も効かないだろう。

 恐怖が勝ったのか、とうとう敵の一人がこの場から逃げ出した。それに続くように、他の男達も武器を放り出し、脱兎のごとく走り出す。

 レヴィアを捕まえていた男に至っては、レヴィアの体を竜に向かって突き飛ばして逃げていった。

 恐らく、レヴィアを餌にして、逃げる時間を稼ごうとしたのだろう。

 竜の前に突き飛ばされ、うつ伏せに倒れたレヴィアは、恐る恐る顔を上げた。

 視界に映ったのは竜の前足と腹部。さらに視線を上に向けると、竜の顔が見えた。

 赤い瞳がじっとこちらを見下ろしている。
 どこか寂しそうに。
 
 その表情が、自身をバケモノと呼んだ時のセイリスの表情と被った。

「セイリス……さま?」

 確かめるように名を呼ぶと、竜は肯定するように小さく唸った。