「おはようございまーす!」
 「お!朱里、久しぶりだな」
 「はい!奏先輩もお元気でしたか?」
 「おうよ!」

 放課後、朱里はヴァイオリンを持って部室に顔を出した。

 学校も始まり、練習もしやすくなる為、桐生グループのマンションへの訪問演奏をまた何件か引き受けることにしたのだった。

 今日はそのミーティングで、四人が久しぶりに集まることになっていた。

 美園と光一はまだ姿が見えない。
 二人とも理系の為、おそらく実験が長引いているのだろう。

 奏はいくつか持参した楽譜を見ながら、選曲について考えているようだった。

 「奏先輩」

 朱里は、弓に松脂を付けながら奏に声をかける。

 「んー?なんだ」
 「奏先輩の幸せって何ですか?」

 はっ?と奏は素っ頓狂な声を出して朱里を見る。

 「お前、どした?え、何かの曲のアナリーゼか?」
 「いえ、そういう訳では。単純に聞きたくて。人は恋人が出来ると幸せになれるのですか?」
 「それ、今彼女がいない俺に聞くか?」
 「えっ!奏先輩、彼女いないんですか?」

 はあー?と奏は眉間にシワを寄せる。

 「お前の頭の中どうなってるんだ?さっきから訳わからん」
 「ですよね、すみません」

 ははっと朱里は笑ってごまかす。

 「まあ、でも。お前が本当の恋をしたことがないのは知ってる」

 えっ!と朱里は驚いて奏を見る。

 「ど、どうしてですか?」
 「お前の演奏を聴けば分かる。明るい曲は得意だし、綺麗なメロディもまあ、そこそこ上手い。けど、誰かを恋い焦がれるような艶やかさや、想いが叶わない切なさは表現出来てない。そんな恋をしたことないんだろ?」

 朱里は半ば感心したように頷いた。

 「確かにそうです。そうか、だから奏先輩みたいな、聴いていると胸がキュッと切なくなるような音が出せないんですね、私」
 「そうだな。俺はそりゃもう、酸いも甘いも噛み分けた大人の男だからな」
 「おー、すごーい!恋愛マスター!」
 「やめろ。別に集めてない」
 「あっはは!たくさん彼女ゲットしたんでしょ?」
 「してないっつーの!それよりお前こそ、いい加減いい恋愛しろよ。恋人同士になれなくてもいい。誰かを心から好きになれば、それだけで人生は豊かになる。振られたらどうしようとか、両想いになれないとか、そんなことも考えられないくらい誰かに夢中になれれば、それだけでも幸せなんだぞ」
 「えっ…」

 朱里は奏のセリフを頭の中で反復して考える。

 「たとえその人に彼女がいても?絶対告白出来ないと分かっていても?片思いなんて、辛くなるだけなのに?」
 「それでも好きになってしまうのが恋だろ?もちろん相手から奪おうなんて思わない。けど、好きって気持ちは抑えきれないんだ。そして、その気持ちを自分で持て余して切なくなる。それも人間らしさのうちの一つだ」

 最後に奏は、ポンと朱里の頭に手を置いて顔を覗き込んだ。

 「お前も色んな経験をしろ。人間らしさをさらけ出して、自分の気持ちに正直に、心のままに生きてみろ。そしてその感情を全て音に乗せるんだ。それはきっと、聴く人の心を揺さぶる魂のこもった音になる」

 朱里はじっと考えてから頷いた。