「おや?お一人ですか?」

 コツンと踵の音がして振り返ると、東条がグラスを片手にテラスに足を踏み入れていた。

 「東条さん」

 朱里は立ち上がって会釈する。

 「そんな、いいから。どうぞ座って」

 東条は朱里の右手を取り、朱里が腰を下ろすのを見守る。

 「朱里さん。兵庫のコンサートのこと、赤坂から詳しく聞いたよ。彼とは昔からの親友でね。何でも本音で話す仲なんだ。君のこと、とても気が利く素晴らしい女性だと褒めていた」
 「えっ?いえ、そんな。バタバタ走り回ってばかりで、直前の変更や段取りの悪さなど、赤坂さんにはご迷惑をおかけしました」
 「そんな事は一言も言ってなかったよ。それより、君が吹奏楽部の子ども達としっかりコミュニケーションを取っていて、どの曲がやりたいか、どうしてその曲を選んだのかをきちんと把握して伝えてくれたのが助かったって」

 ああ、と朱里は視線を落とす。

 「それはあの子達がしっかりしているからです。故郷を大切にする気持ち、いつか都会に出て行ったとしても、生まれ育った故郷はずっと大切に覚えていたいという気持ち。私はその言葉を赤坂さんに伝えただけです。そして赤坂さんも、あの子達の気持ちをきちんと汲んで、良いアドバイスをしてくださいました。おかげであの子達、本番ではゲネプロの時よりも遥かに良い演奏をしてくれました」

 ふうーん、と東条はシャンパンを口に含んでから朱里を見る。

 「君はとても良い架け橋になってくれるね。俺達音楽家にとって、どんな演奏を求められているのか、観客はどんな人達なのか、その場の雰囲気はどんな感じなのかを知ることはとても重要なんだ。そこに溝があると、お互いに良い時間は生まれない。君は素晴らしい橋渡しをしてくれる。ねえ、朱里さん。君は桐生ホールディングスの社員なの?」
 「え?いいえ、私はまだ大学生です」
 「そうなんだ!それならさ、俺のマネージャーとして働いてくれないかな?最初はアルバイトで、大学を卒業したら正式に俺のマネージメント事務所で雇いたい。どうかな?」

 事態が呑み込めずに、は?と聞き返していると、ふいに朱里と名前を呼ばれた。

 振り向くと、瑛が近づいてきて朱里の手を取る。

 「社長と一緒に挨拶に回りたい」
 「え、あ、はい」

 朱里が立ち上がると、東条が瑛に声をかけた。

 「朱里さんは桐生ホールディングスの社員じゃないのに?なぜ社長と一緒に挨拶回りをさせるの?」

 瑛は朱里の腰をグッと自分に近づけてから答えた。
 
 「彼女は桐生ホールディングスのCSR推進部、企画課芸術部門の担当者です。今夜もその仕事の一環でこのパーティーに参加しておりますので」
 「ふーん、まあそういう事にしておこうか。朱里さん、考えておいてね、さっきの話。じゃあ」

 そう言って東条は去って行った。