「ねえ、瑛」
「なに?」
「まだ落ち込んでる?その、聖美さんとのこと」

朱里の問いに瑛は少し考え込む。

「彼女のことで落ち込んでる訳じゃない。ただ、自分が情けなくて落ち込んでる」

朱里は瑛の方を見た。

「どうして自分が情けないの?」
「…俺さ。俺なりに真剣に向き合ったんだ。精一杯尽くした。それでもだめだった。彼女を悩ませて、そして言い辛いことを彼女の口から言わせてしまった。男として本当に情けない」

朱里はしばらく考えてから口を開く。

「瑛。私は瑛が凄くがんばってたのを知ってる。いつも近くで見てたから。でも結婚ってさ、がんばってするものじゃないでしょう?」

え?と瑛が朱里を見る。

「がんばって聖美さんに向き合って、がんばって幸せにしようとして、がんばって彼女に紳士的に接して…。そんな瑛を見て、彼女は思ったんじゃないかな?自分の為にがんばらないでって」

瑛は聖美の言葉を思い出す。
彼女が笑って言ってくれた言葉。

「ご自分の幸せが何かを見つけてくださいね」
「え?」
「そう言われたんだ、彼女に」
「…そう。優しい人だね、聖美さん」
「ああ」

瑛は目頭が熱くなるのを感じた。

「瑛、これからはがんばらないで。もっと自分の心に耳を傾けて。瑛が誰かを幸せにしたいと思うなら、無理にがんばらなくていいの。その人を幸せにしたい、ただ純粋にその気持ちを大事にして。ね?」

それと、と朱里は付け加える。

「みんなが瑛に望んでいるのは『立派な桐生ホールディングスの御曹司』じゃない。『いつまでも幸せな桐生 瑛でいて欲しい』ただそれだけだと思うよ。おじ様もおば様も、お姉さんも菊川さんも。あ、もちろん私もね」

瑛の心から、凝り固まった重荷がすっと消えていく。
自分にのしかかっていた暗雲が晴れていく気がする。

やがて素直な自分の気持ちだけが込み上げてきた。

朱里と一緒にいたい。
これからも、二人で楽しく笑い合いたい。

願ってもいいのだろうか?
今ならもう、正直に自分の気持ちを認めても許されるだろうか?

そしていつか…
朱里に伝えてもいいだろうか?
朱里を幸せにしたいと。

「…朱里。俺、これからは桐生 瑛として普通に生きていってもいいのかな?何の肩書もない、非力で無能なただの一人の男として」

返事はない。

「朱里?」

顔を向けると、朱里は気持ち良さそうにスヤスヤ眠っていた。

「え、はやっ!10秒で寝た?」

ポカンとしたあと、堪え切れなくなり笑い出す。

「はは!いいな、朱里って。自然体で素直で」

自分もそんなふうに、肩の力を抜いて生きていこう。
そう心に決めた。

「サンキュ、朱里」

もちろん返事はない。

瑛はもう一度ふっと笑ってから目を閉じた。