それを聞いて、自然と穏やかに笑うことができた。
空っぽだった心が満たされていく。
(やっぱり、好きだなぁ)
不器用ながらもひと一倍優しいところ。
誰かのために一生懸命なところ。
柔らかい黒髪も、あたたかい手も、切れ長の瞳も、意外と甘いものが好きなところも。
無愛想で口が悪いけれど、思いやりにあふれている向坂くん。
ずっと、どの瞬間もわたしを信じてくれていた。
彼はやっぱり、意味もなく人を傷つけたりはしない。
「……いらねぇよな、もう。こんなもん」
向坂くんはポケットからペティナイフを取り出した。
そのままそれを川に放り捨てようとしたのだと思う。
けれど、そうはならなかった。
「え……?」
突如として目の前をよぎった人影が、そのまま向坂くんにぶつかった。
音もなくナイフが地面に落ちる。
「蒼くん……!?」
人影の正体は蒼くんだった。
ぶつかった、というより、弾みをつけて突き落とした。
不意をつかれた向坂くんの身体は、いとも簡単に欄干を越えて宙へと投げ出される。
「向坂くん!」
身を乗り出してとっさに手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。
「菜乃……っ」
わたしの手は彼の指先を掠め、何もない空を掴むだけ。
向坂くんは阻まれることなく落ちていく。
一瞬の出来事だった。
飛沫が上がり、波紋と泡沫が揺れる。
騒がしくなった水面は次の瞬間、嘘みたいに凪ぐ。
何事もなかったかのように光の粒を散らせ、ほぼ完全な静寂が訪れた。
「うそ……」
呟いた声は掠れて溶ける。
信じられない気持ちで蒼くんを見やった。
どうしてここにいるのか。
いま、どういうつもりで何をしたのか。
聞きたいのに言葉にすらならない。
彼は、はっと我に返ったようだった。
彼も彼でひどく狼狽していた。
「どうしよう、俺────」
青ざめた顔で視線を彷徨わせ、両手を震わせている。
「き、救急車……」
なけなしの理性が働き、わたしは慌ててスマホを取り出した。
何度も取り落としそうになりながら通報する。
頭も感情も整理が追いつかない。
(もう、こんな終わり方は嫌だよ……)
向坂くんまで失いたくない。
こんなふうにまた生き永らえたって、わたしには何も残らない。



