藍生「……それじゃあ早速、一つ言う事聞いてもらおうかな。」

梨穂(何を言われるんだろう……というか、華僑君怖すぎだよ……!)

 梨穂は藍生に奴隷宣言をされてから、藍生の目の前で正座している。

梨穂(奴隷になったのは不本意だけど、今の華僑君に勝てるわけがない。)

 と、判断したからだ。

 奴隷は身の程を弁えるもの。

 梨穂はいつぞやのどこかのテレビ番組で、そんな情報を見た。

梨穂(とにかく、華僑君を刺激しないほうがいい……大人しくしておこう。)

 梨穂はそう考え、目の前でうーんと悩んでいるらしい藍生から視線を外す。

 今の藍生は完全なる不良。梨穂は恐怖と困惑で、言葉が出ない。

 だからとりあえず、あまり藍生を見ないようにしよう……と考えついた。

藍生「ねぇ、三住さん。」

梨穂「な、何でしょうか……。」

藍生「……何でこっち向かないの。」

梨穂「華僑君が怖いから……です。」

藍生「へぇ……。」

 梨穂は正直に言ってしまってから、はっと気付いた。

梨穂(さっきから私、正直に言い過ぎじゃない……!? もしかして華僑君のこと、怒らせちゃった……!?)

 意味深な藍生の声色に、梨穂はぶるっと身震いする。

 その瞬間、藍生が梨穂の視線と合わせるようにしゃがんだ。

 けれど未だ、視線を藍生から外し続ける梨穂。

 それが気に障ったのか、藍生は少し強い語気で梨穂の後頭部に手をまわした。

藍生「こっち向けって。」

梨穂「っ……!」

 強引に視線を合わせられ、梨穂は微かに震える。

 手を回されているから自由な身動き一つとれず、梨穂は大きく謝った。

梨穂「な、なんかごめんなさい!」

梨穂(奴隷なのに歯向かっちゃった……最初から私、何やってんの……!)

 梨穂は心の中で、自分自身をぽかぽか殴る。

 ……だけどいつまで経っても、藍生は何も言わない。

梨穂(あれ……華僑君、どうしたんだろう……。)

 そう不思議に感じた梨穂は、恐る恐る顔を上げる。

 途端、梨穂は開いた口が塞がらなくなった。

藍生「ふはっ……なんかって、謝る時に使う言葉じゃないでしょ……ふふっ。あー、面白すぎ……。」

梨穂「……あの、華僑君? どうしたの?」

藍生「どうしたもこうしたも……ふふっ、俺がこうなっての、明らかに三住さんのせいなんだけど……。あはは、もう三住さんこんなキャラだって思ってなかったからさ……マジで笑いが止まんないの。」

梨穂「えぇ……そう、かな……。」

藍生「マジでその反応も面白すぎなんだけど。三住さん……あー、なんかめんどいね苗字呼び。」

梨穂「はいっ?」

梨穂(苗字呼びが面倒、とは……。)

 何だか嫌な予感がした梨穂は、無意識に顔が強張る。

 そして次の瞬間、その予感は当たる事になった。

藍生「ねぇ、俺これから三住さんのこと梨穂って呼ぶからさ……梨穂も俺のこと、名前で呼んでくれない?」

梨穂「えっ!? そ、それは無理だよっ!」

梨穂(私が今の華僑君を呼び捨てとか……で、できないにも程があるっ!)

 藍生の威圧が凄いせいで、梨穂は拒否しようとする。

 けれどあっさりと、その拒否は梨穂の選択から消え去る事になった。

藍生「主人の命令、聞けないの?」

梨穂「うぐっ……。」

梨穂(そう言われると、何も言えないよっ……!)

 逆らうとどうなるか分からない。

 梨穂はさっきの出来事で藍生の怖さを知ってしまったから、一瞬言葉に詰まる。

 でも、選択はあってないようなもの。

 梨穂は藍生の圧に負けて、その命令を了承してしまった。

梨穂「わ、分かった……。藍生君……って呼べばいいの?」

藍生「……ま、今はそれでいいよ。」

 少し不服そうな表情で、藍生は返事をする。

 だが藍生の表情はすぐに変わり、ニヤッと意味深な笑みへとチェンジした。

藍生「とりあえず梨穂の自由な時間はないと思って。」

梨穂「そ、それはどういう意味で……」

藍生「言葉通りだけど? 登下校は一緒で、昼休憩は俺と過ごす。教室も一緒だし、梨穂はほとんどの時間を俺と一緒に居てもらうよ。」

梨穂「……それは、何故(なにゆえ)。」

藍生「監視だよ。か、ん、し。梨穂が俺のこと、誰にも言わないように。……梨穂、昨日の俺の言った事覚えてる?」

梨穂(昨日の藍生君の言った事……って……。)
 
 梨穂の脳内に、昨日の夕方の出来事が思い出される。

梨穂「『誰にも言わないで』……って事?」

藍生「うん、それ。ちゃんと覚えてるじゃん、偉いね。」

梨穂「……私、子供じゃないよ。」

藍生「分かってるよ。梨穂は俺の奴隷だもんね。」

 藍生は梨穂の頭を撫でながら、さらっと奴隷だと言ってくる。

 その言葉に梨穂はビクッと、つい大きく驚いてしまった。

梨穂(そ、それはそうなんだけど……思っていたのと違う返しだった……。)

 梨穂は『子供扱いしないで』と伝えたつもりだが、藍生には伝わっていなかったらしく今の立場を明確にさせられた。

 だけど頭を撫でられている時に、梨穂にはふっとこんな思いが浮かんだ。

梨穂(……私が思ってるよりも、不良って怖くなかったりするのかな。藍生君が怖くない、ってわけじゃないけど……。)

 悶々と、そんな事を考え込んでしまう梨穂。

 そんなタイミングで運がいいのか悪いのか、昼休憩が終わるチャイムが辺りに鳴り響いた。

藍生「もうそんな時間か。……まぁ、人に見られたらヤバいからさっさと戻ろうか梨穂。」

梨穂「……分かり、ました。」

藍生「ふっ……何で敬語。やっぱ梨穂って面白いね、最高。」

梨穂「……これは褒められてる?」

藍生「ん? それはどうだろうね。梨穂の捉え方次第じゃない?」

梨穂(だったら褒められてるわけじゃないだろうなぁ……。だって何だか、そんな感じするもん。)

 上手く表現できないけど、と梨穂は頭の中で付け足す。

 梨穂がそう思う間に、藍生はいつもの温厚華僑藍生に戻った。

 さっきまで上げていた髪もおろし、眼鏡をかけ直す。

 そしてたちまち、普段の柔らかい笑みを浮かべてみせた。

藍生「それじゃあ早く行こう、“三住さん”。」

梨穂「うん……そうだね。」

 いつもの優しい藍生……のはずなのに、どこか不良が見える。

梨穂(ギャップ……凄すぎる。これ、詐欺レベルだと思う……。)

 だけどそれは口には出せない。

 ……藍生の裏の顔を知ってしまった今、梨穂は逆らわないほうが吉だと分かってしまったから。

○テニスコート(放課後)

梨穂(今日から一緒に帰る、かぁ……。)

 テニスラケットを持ち、梨穂はおもむろにため息を吐いた。

 今は部活の最中で、休憩の時間。

 でも梨穂の頭の中は、藍生との事ばかりだった。

梨穂(藍生君、意外とちゃっかりしてるしなぁ。いつもの優等生になったら呼び方も変わるし、みんなが居るところでは私に対しても何事もなかったかのように優しい。だからこそ、不良バージョンの藍生君が怖いけど。)

 何故こうなってしまったのだろう……そう考えても、出てくるのは自分の失態ばかり。

 路地を覗かなければ、知らないふりをすれば。そんなたらればがいくつも浮かぶ。

 もう一度ため息を吐き出し、ラケットを握り直す。

 その時前方から、ある生徒が梨穂の元へ歩いてきた。

結希「梨穂ちゃん、何でそんなため息吐いてるの?」

梨穂「あ……結希先輩……。」

 梨穂を心配そうに見つめてくる彼は、鞍馬結希(くらまゆうき)。梨穂より一つ年上で、男子テニスのエース的存在。

 男子のほうは今休憩に入ったらしく、結希の額には汗が輝いている。

梨穂(結希先輩、今日も相変わらず輝いてらっしゃる……!)

 梨穂は結希と話す時、いつもその事を思う。

 結希はいわゆる爽やかイケメンらしく、毎度の事ながら女子に騒がれている。

女子1「今日も結希先輩はお美しいっ……!」

女子2「もうマジで眼福だよね~。」

 だけど梨穂は、結希の隣で落ち着くはずがない。

梨穂(うぅっ、先輩はいつも私に話しかけてくるけど、女の子たちからの視線が怖いよ~……。私、いつか結希先輩ファンの子たちにコテンパンにされるんじゃ……。)

 被害妄想がひどい梨穂は、よくそんな事を思う。

 うむむ……と考え込む梨穂に、結希はさっきの話を続ける。

結希「梨穂ちゃんさ、さっきめちゃくちゃ百面相してたけど……何かあったの? 梨穂ちゃんが悩むなんて、らしくないと思うんだけど。」

梨穂「……何も、ないです。」

結希「本当? ……嘘、吐いてない?」

梨穂「つ、吐いてないです……。吐くわけないじゃないですか、あはは……。」

梨穂(ごめんなさい先輩、言えるわけないんです。私、命を人質にされてるんです。)

 言ってしまえば、藍生のことも話さなきゃならなくなる。

 だから梨穂はただ否定する事しかできず、取り繕ったような笑みを浮かべた。

 そんな梨穂に結希は、少し目を細める。

結希「ねぇ、梨穂ちゃん。」

梨穂「は、はい?」

結希「俺に嘘、吐いてたら……お仕置きしてもいい?」

梨穂「……はい!?」

梨穂(え、お仕置きって何!? 結希先輩めちゃ笑顔だけど、何企んでるか分からない……!)

梨穂「い、痛いのは勘弁してください。」

結希「……それはどーだろね。」

梨穂「えぇっ……!?」

 意地悪そうな笑顔でとんでもない発言をする結希に、梨穂はしばし固まる。

 だけどそのタイミングで、女子テニスの顧問が招集をかけた。

女子テニス顧問「練習再開するから、そろそろコートに戻ってきてー!」

梨穂「あっ、先輩失礼しますっ!」

結希「うん、頑張ってきてね。」

 梨穂は結希に軽い会釈をしてから、コートへと向かう。

結希「……お仕置き、何にしよっかな。」

 結希は梨穂の背中を見送りながら、そんな事を呟いた。

○校門前(放課後)

藍生「……来てくれたんだね、ありがとう三住さん。」

梨穂「う、うん。」

藍生「それじゃあ早速、帰ろっか。」

梨穂「……藍生君、ちょっと待って、ください。」

藍生「どうしたの?」

 梨穂には少し、思うところがある。いつもとは違う、この成り行きに。

梨穂「私、いつも登下校は音羽ちゃんと一緒なんだけど……それ、どうなるの。」

藍生「……あぁ、その事ね。それは心配しないで、俺からいろいろ話してるから。」

梨穂「ど、どう言った内容を……」

藍生「今日から俺と三住さんはしばらくの間一緒に帰りたいから、三住さん借りてもいい?……って。」

梨穂「……音羽ちゃん、オッケーしたの?」

 不安そうな表情を浮かべ、梨穂は小さな声で聞く。

 すると藍生は眼鏡を外しながら薄い柔らかな笑みを浮かべ、あっさり答えた。

藍生「『ぜひともどーぞ! 梨穂と仲良くしてやってください!』って俺は聞いたよ。西日さん、三住さんの親みたいだね。」

梨穂(音羽ちゃん、何を言って……! というよりも、音羽ちゃん止めてほしかった……。音羽ちゃんが止めてくれてたら、少し私の余裕はあると思ったのに……。)

 梨穂は心の中で落胆するも、気を取り直すしかないと気を引き締める。

梨穂(音羽ちゃんが止めてくれなかったのは仕方のない事だし、もう甘んじて受け入れるしかないよね……藍生君に逆らえるわけがないし……。)

藍生「……すっごい顔。そんなに俺と帰るの嬉しいの?」

梨穂「そういうわけじゃ……もう仕方ないなって、思っただけだよ。」

藍生「やっぱ正直。ま、さっさと帰ろ。梨穂の家どっち方向?」

梨穂「……あっち。」

藍生「あ、俺と一緒の方向なんだ。だったらより監視しやすいね。」

 藍生は愉快そうな笑みを零して歩き始める。

 藍生に逆らえない梨穂は藍生について歩き、一緒に帰る。

 その間、二人の間には沈黙が流れていた。

 けれど不意に藍生が梨穂の腕を掴み、引っ張った。

藍生「梨穂はこっち歩いて。車に轢かれる。」

梨穂「……ありがとう、です。」

藍生「その変な敬語、何とかならないの? まだちょっとしか梨穂と居ないのに、面白すぎてヤバい。」

梨穂(これは……どうなんだろう。褒められてるのか、貶されているのか。)

 微妙なラインでうーんと悩む梨穂。

 でも藍生の優しさを見た梨穂は、ついこんな質問を零した。

梨穂「……藍生君は、不良とは無縁そうなのに何で昨日――」

藍生「その話、しないでくれる? 言いたくない。」

梨穂(あ……やっちゃった。)

 藍生の少し悲しそうな表情を見ながら、梨穂は自分が失言をした事に気付いた。

梨穂(無神経だったよね、こんな事聞くの……。他人のテリトリーに踏み込むのは良くないって、前々から知ってるのに。)

『三住さんって良くも悪くも正直だよね。いずれいろんな人から嫌われるよ?』

 昔の記憶が梨穂の頭にフラッシュバックする。

梨穂(……知ってるのに、何度同じ過ちをすればい気が済むんだろ。)

梨穂「藍生君ごめんね。私の言葉は気にしないで……!」

藍生「申し訳ないって思ってるんだ。」

梨穂「うん、もちろん。人のプライバシーを侵害するのはダメだって、分かってるから。」

藍生「……だったら、俺の命令聞いてくれる?」

 ふっと、静かに告げられた言葉。

 “命令”という単語に梨穂は驚くけど、途端に余計に何も言えなくなってしまった。

藍生「そんな今にも泣きそうな顔、しないでほしい。可愛くないよ。」

梨穂「え……っ。」

 腰を引かれ、藍生に抱きしめられる梨穂。

 ここは道路。誰に見られてもおかしくない。

 ……それなのに、梨穂は拒否する事ができなかった。

梨穂(……ドキドキ、うるさいよ。)

○梨穂の家前(夕方)

梨穂「送ってくれてありがとう、藍生君。また明日、ね。」

藍生「ん。明日からはいろんな命令聞いてもらうから、覚悟はしといてね。」

梨穂「う、うん……し、しておく。」

藍生「いい子じゃん。」

 藍生は梨穂に意地悪な笑顔を向けてから、踵を返す。

 梨穂はその背中を見送ってから、玄関の扉を開けて家の中に入った。

梨穂(……やっぱり、思えないよ。藍生君が不良なの、信じられない。)

 そう考えながら、自分の部屋のベッドにダイブする。

梨穂(初めて、男の子に抱きしめられたな……。あんなに緊張するものなんだ、抱きしめられるのって……。)

 未だ高鳴る心臓を抑えるように、梨穂は深呼吸をする。

 でもそんな事で心臓は抑えられなくて、その心臓の音を聞かないように目を瞑った。