「ね、何か飲む? アデルの好きな、クルミのケーキもあるよ。洋梨のパイも」


「いらないわ。お茶がいい。冷たいの」


 ノアは給仕にそれを注文すると、そのまま空いていたソファに座った。


手にキスをする。


「ご機嫌は直った?」


「直ってない。今は我慢してるだけ」


 彼は握った手を何度も握り返しながら、ずっと繋いだままだ。


「それは、兄さんの誕生日だから?」


「それ以外に、なにかある?」


「はは。じゃあ、ステファーヌ兄さんに感謝しないといけないな。おかげで僕は、アデルに怒られないですむ」


 自分の顔が、怒りで赤くなっているのが分かる。


とにかく恥ずかしい。


早く帰りたい。


あんなことをされたのに、平静を保っていられる自分のことも嫌でしょうがない。


ノアも怒っている。


それでも静かに微笑んだ。


「君が、本当にそう思ってくれているのなら……。僕はうれしいよ」


 明らかに表情は固く沈んでいるのに、何の気もなく、そんなことを言えてしまうノアが悔しい。


この人は本当に、この場さえ乗り切れればそれでいいんだ。


ステファーヌさまが近づいてくる。


「やぁ。随分楽しんでくれているみたいだね」


 ノアが立ち上がるのに続いて、私も立ち上がった。


「兄さん。お誕生日おめでとう」


「ステファーヌさま。おめでとうございます」


「ありがとう」


 型どおり決められた笑顔を浮かべた私たちに、ステファーヌさまは、フッと笑みを浮かべた。


「丁度いい機会だと思ってね。アデル。君に紹介したい人がいるんだ」


 フィルマンさまに連れられ、リディとコリンヌが進み出る。


「アデル。君もこの二人のことは知っているね。将来、ノアの妃候補となる方たちだ」


 ステファーヌさまに紹介され、二人は膝を折り頭を下げた。


「どうかよろしくお願いいたします」


「微力ながら、ノアさまにお力添えしたいと思います」


「いずれも、将来王室の支えとなるのにふさわしい方々だから、仲良くしてやってくれ」


 そう言って、ステファーヌさまとフィルマンさまは微笑む。


ノアはじっと前を向いたまま動かない。


婚約者候補? 私以外にも? 


そんなの、初めて聞い……。


私はにっこりと微笑む。


「もちろんですわ。お二人とも尊敬すべき方だと、以前から密かにお慕いしておりましたの。共にノアさまを支えていただけるのであれば、これほど心強いことはありません」


 私はそう言うと、彼女たちの手をとった。


「どうかこれからも、よろしくお願いします」


 違う。


私だって、ちゃんと知っていた。


分かっていた。


ノアには私ではない、国内の有力候補の中から、ちゃんとしたお妃が選ばれるんだって。


だからオスカー卿主催の馬術大会にも彼女たちはいたし、私の知らない所でも、常にノアは、そんなお妃候補となりうる女性たちと会っていたんだ。


「ありがたいお言葉ですわ」


「もったいなくございます」


「ねぇ、アデル。僕は……」


「ノアにもそろそろ、しっかりしてもらわないと。ちゃんとアデルの方は心得ているじゃないか」


 ノアの言葉を、ステファーヌさまは遮る。


「いつまでも現実から逃れていてはいけないよ。お前にもこの国に生まれた王子としての役割がある」


 広間には優雅な音楽が流れ、集まった人々はダンスをしたり、おしゃべりに花を咲かせたりしている。


リディさまとコリンヌさま以外にも、多くの女性たちが招かれていた。


先ほどから執拗に感じる視線の痛みは、気のせいなんかじゃない。


「恋人ごっこはお終いだ」


 そう言うと、ステファーヌさまは微笑んだ。


その第一王子と同じ笑顔で、リディとコリンヌが応える。


「まぁ、そんな。『恋人ごっこ』だなんて、お戯れがすぎますわ」


「そうですよ。私もリディさまに賛成です。仲睦まじいということは、それだけでよいことでございますもの」


 私も彼女たちと同じ、決められた笑みを返す。


「ふふ。お二人とも、ありがとうございます」


 そうだ。


分かっていた。


知っていた。


だから決して、本気にしてはいけないんだって、自分でもあれほど……。


不意に、フィルマンさまの手が私の腰に回った。


「さぁ、こんなつまらない話しを、アデルもいつまでも聞いていたくはないだろ? 君にはまだ別の仕事がある。さっきから順調に挨拶はすませたみたいだけど、お気に入りは見つかったかい?」


 その腕に連れ去られるように、私はその場を離れる。


「君には第三王子のお妃候補として、もう一つ役割があるだろう。この国には、才能がありながらなかなか世には認められない素晴らし力がある」


 ノアは、リディさまとコリンヌさまに囲まれたまま、ステファーヌさまとまだ何かを話している。


「君にはそういった才能たちの、後ろ盾になってほしいんだ。いつまでも王宮の片隅に、じっと引きこもってばかりいてはダメだ。そうだろう? 君には君の立場にあった役割というものがある」


 今や、この会場にいる女性たちの目は、全てリディとコリンヌに向けられていて、多くの男性の視線と注目は、私に向かっていた。


「君が思うより、この国で君は尊重されているし、世界は広い。君はシェル王国の王女なんだ。それなのにどうして、王宮の隅っこに隠れてばかりいる」


「ですが私には、そのような資格は……」


「資格? 生きて恋をすることに、どんな資格がいるって?」


 そう言った私に、フィルマンさまはウインクを投げる。


「大丈夫だ。君の国のことは心配する必要はない。君はこの国にとって、我がマルゴー王家にとっても、大切なお客さまだ」


「だけど……」


「ほら、難しい話しは今はやめよう。せっかくのパーティーが台無しだ。それとも本当に、お気に入りは見つからなかった?」


「お気に入りって……。私に、パトロン……に、なれとおっしゃっているのですか」


「そう。君がよいと認めれば、世間も注目する。もちろん、恋をするのも自由だ。ノアがそうであるようにね」


 目の前には、ノアのお妃候補である女性たちと、王室の支援を望む若き才能が集められている。


「ノアばかりが君に隠れてこんなことをしているなんて、許せないだろう? 君にも君の人生を楽しむ権利はある。少なくとも俺は、そう思ってるよ」


「それで、今年は呼んでくださったのですか?」


「アデルももうじき、16になる。ちょうどいい機会だと思ったんだ。それに、君にもちょっとは貫禄をつけてもらわないとね」


「貫禄?」


「お妃争いに、負けないように」


 そんなこと、考えたこともなかった。


フィルマンさまを見上げる。


彼はその顔に、優しい笑みを浮かべた。


「君は自由なんだよ」


 添えられていた手が離れる。


その瞬間、私を取り囲む人垣があっという間に出来た。


「アデルさま。これは私の作曲した楽譜です。ぜひ王宮の舞踏会で聴いていただきたく……」


「次の舞台では、大がかりなカラクリ仕掛けを試したいと思っておりまして、そのための装置なのですが、ぜひアデルさまのご意見をうかがいたく……」


「実は、田園の風景画はどうかと考えておりまして……」


 私はにっこりと静かに笑みを浮かべたまま、順番に語る彼らに耳を傾けている。


『大人になれ』と、言われているのね。


私もノアも。


話しを聞いているフリをしながら、その内容は何一つ入ってこない。


「素敵ですわ。ぜひ皆さま一度、アカデミーでご紹介させてください」


 そう答えるだけが精一杯で、自分が何をしているのかも分からない。


こみ上げてくる感情は、悔しさなのか、怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか……。


 私に必要とされているのは、あくまでその地位や肩書きに対する役割を果たすことであって、個人の感情や好き嫌いなんて、誰も聞いてくれない。


「本当に、素晴らしいお誕生日会だわ」


 そうだ。


セリーヌに教わったんだ。


立ってる時は、手の位置に気をつけろって。


背筋は必ず、伸ばしておくようにって。


いつでもまっすぐ前を向いて、どんな時も微笑みを絶やさず、にこやかに微笑んでいるようにって……。


「アデルさま。お迎えの馬車が到着したとのご連絡でございます」


「そう。すぐに行くわ。では皆さま、ごきげんよう」


 その場を離れる。


歩き出した私に気づいたノアは、すかさず真横に付き添った。


手を握られる。