「どうした? ぼんやりして考えごとか?」
 当時よりずっと低く、男らしい声がアリッサの耳をくすぐる。ふと気がつけば、大人になったリシャールが心配そうにアリッサの顔をのぞいている。
(ち、近いわ)
 アリッサは無表情のまま、スッと彼と距離を取る。すると、彼がふふっと噴き出す。
「いつもそれだ。アリッサは美しい蝶のように俺の手をすり抜けていってしまうな」
(大人になられたのね、きっと)
 アリッサは感情をマナとして扱う聖女、他人の心の機微にも常人よりは敏感だ。
 リシャールが部屋に通ってくる理由は義務感なのだろうということは、最初から察していた。
 マルゴットの代役となったアリッサへの同情、大聖女を大切にするという侯爵としての責務、そういう感情が彼の足を動かしているのだろう。
 アリッサに向けられる優しい言葉も同じ理由からだと理解している。
(でも……リシャールさまの負担になるのなら、私のことなど捨て置いてくれていいのに)
 そんな内容のことを幾度か彼に伝えたつもりだったが、アリッサは説明下手なので伝わらなかったのかもしれない。

 彼は今も、この部屋を訪れ続けている。もう少しでひと月になるだろうか。
「まったく、王都の連中は理解力が低くて困る」
「この髪飾りより、そっちのほうが君には似合う」
「……俺になにか不満があるのか? どうしてそう、かたくななんだ」
(あ。私の知っているリシャールさまだ)
 彼はすっかり大人になってしまい、かつてアリッサが恋をした小生意気な少年はもうどこにもいない。と思っていたが、そうでもなかったらしい。
 リシャールがふとした瞬間に、彼らしい表情を見せることが増えてきた。毒舌で皮肉屋。意外と感情的。あの少年が大きくなったら、きっとこんなふうだろう。アリッサがずっと想像してきたとおりの青年がここにいる。