「やっぱり良い映画だよなあ、これ」
 
 私たちが観ていたのは、『天使のくれた時間』。もう何度目かわからないくらい観ている。
「隼汰の出世作が観たかったのに。もう」
 そう言って私は少しむくれる。今夜は、彼が数年前に字幕を担当したハリウッド映画を観る予定だったのに、いざ始まったのは『天使のくれた時間』だった。しかも、今夜はこのドライブインシアターに他の車が一台もいない。つまり貸切状態になっている。
()ねんなって。家にDVDあるから、今度一緒に観よう。なっ」
 隼汰は私の機嫌をとるように、ポンポンと頭を撫でる。
「今日はさ、どうしてもこれが観たかったんだ。だから、上映作品変えてもらった」
 突然の告白に、ぎょっとする。
「えっ。変えてもらったって……一体どんな手を使ったの……?」
「ヒミツ」
「ええー、何それ」
 不満気な私をよそに、隼汰は楽しそうに笑う。
「なあ、ひなた」
「なに?」
「そろそろ家に帰ってこないか?」
「え……?」
 それはこの一年、隼汰が一度も言わなかった言葉だ。言わないのは、私を気遣ってくれているからだということはわかっていた。だけど、私はまだ、何一つ思い出せていない。あの家で過ごしたはずの、隼汰との時間を。これが映画や小説なら、記憶を再び取り戻してハッピーエンドになるのに。現実はそんなに簡単にはいかない。
「俺は、またひなたと暮らしたい。またあの家で、二人の人生を始めたいと思ってる」
 隼汰は力強く言うと、私を見つめる。フロントガラスの向こう側には、まだ星が流れている。
「でも……。私、何も思い出せてないよ、隼汰のこと。これから思い出せるかどうかもわからない。もしかしたら、ずっと思い出せないかもしれない」
 どんなにそうしたいと願っても。
「だから私、あの家で隼汰と暮らす資格無いよ……」
 隼汰が帰りをずっと待っている「進藤ひなた」は、きっと私じゃない。申し訳なくて、私は隼汰の瞳を見つめ返すことができない

「——なあ、ひなた。映画の字幕を作る時、一秒の映像に対して何文字まで言葉を付けて良いのかわかるか?」
 
 突然、隼汰は話題を変えた。
「え……と、何文字だろう? わからない……」
「正解は、四文字」
「一秒間に、たった四文字?」
「そう。そういうルールなんだよ。だから俺たちは、限られた文字数で最適なセリフを考えるんだ。一秒一秒に、魂を込めてな」
「すごいね……。だから、映画には心に響くセリフがたくさんあるんだね」
「そうだな。たった一秒でも、そのセリフが誰かの心にずっと残ってくれたら。一秒は、永遠になれるんだ」
 
 聞き覚えのある言葉に、私はハッとする。隼汰の顔を見ると、静かに微笑んで頷いた。
 
「ひなたは、ちゃんと覚えてる。俺が話した言葉。前に言ってくれたろ? 永久に続くきらめきもある、って」
 
 言った。確か言った。でもあれは、私の夢の中のセリフで——。
 
「俺が、ひなたに言ったんだ。昔、ここでプロポーズした時に。一秒は永遠になれる、って」
 
「私……その言葉、覚えてた。夢で見てたの。あれは……隼汰の声だったの?」
 
 涙が、溢れた。
 私は、ちゃんと覚えていたんだ。隼汰のことを忘れても、隼汰がくれた大切な言葉だけは。
 
「昔のことは思い出せなくてもいい。そんなの、俺がいくらでも覚えててやるから。ひなたと過ごした一秒一秒は、永遠に俺の中から消えないから。だから——」
 
 ——隼汰。

 私は、自分の唇で隼汰の口を塞いだ。彼は一瞬、驚いたような顔をしたものの、応えるようにキスを返してくれる
 この一秒だけは、この先もずっと忘れたくない。
 
「隼汰。私——帰りたい」
 
 ようやく、長い夜が明ける。