その時ラクリマとわたくしの間を、黒く冷たいものが駆け抜けました。

「!?」

その怪物は赤い閃光の双眸をギラギラさせて、黒く大きな右手でラクリマを、左手でわたくしの体を掴み上げます。

「うぐっ!」

力は込められていない。けれど極限貧血の今は少しの衝撃でもつらい。
揺れる目を何とか怪物の方に向け、その正体を確かめます。

…いいえ、確かめる必要がありません。
分かりきっていますもの。

「ス、スアヴィス…。」

スアヴィス以外にありませんでした。
燕尾服の裾が生き物の腕のように伸び、ラクリマとわたくしの体を捕らえています。
スアヴィス本体は背筋を伸ばし、両腕を組んだ状態で、ひんやりとした無表情でわたくし達の顔を見ています。

「うっ、は、離して…!」

天真爛漫なラクリマでさえ、恐怖で顔を青くしています。必死にもがきますが、スアヴィスの拘束は少しも緩みません。

「…キュウン…。」

勇敢なニクスも、人ならざる姿を見せるスアヴィスを前にしては、すっかり怯えてしまいました。

「………ス、スアヴィス…!
お願いよ…離して…!」

わたくしは弱々しく懇願します。
無駄だと分かっているのに。主人を鷲掴みで拘束するような使用人が、素直に言うことを聞くはずがない。
スアヴィスは、わたくしを見つめて低く訊ねます。

「…追いかけっこはおしまいですか?
このままでは、ゲームは私の勝ちになってしまいますよ?」

「…ウゥ…!」

わたくしは悔しさと罪悪感のあまり、唇を噛み締めます。
ごめんなさいラクリマ。ごめんなさいニクス。助けられなくて。こんな頼りにならない貧血鬼(ひんけつき)で、本当にごめんなさい…。

霞む視界の端。
ラクリマが、自分を捕える怪物の手の隙間から、きらりと光る物を取り出すのが見えました。

「…レギナさんを離して!!」

それはガラスの小瓶でした。
中に蓄えられていた水らしき液体を、ラクリマは渾身の力で、怪物の手へと振りかけます。
その水が触れた瞬間、

「!!!」

スアヴィスの体が、ジュウゥという音と共に溶け出したのです。
彼の顔が、予期せぬ痛みに歪みます。

「!?」

これにはわたくしも目を見張ります。

あのスアヴィスが傷つけられた。あの水が、ただの水ではないことは明らか。
ラクリマは聖職者の血筋です。その彼女が、魔物を滅するための“聖水”を常時携帯していても、何の不思議もありません。

拘束が緩み、わたくし達の体は自由になります。反射的に、わたくしも残った力を振り絞って、ラクリマの体を抱き上げました。

「わわっ、レギナさん!?」

「…し、しっかり掴まってて!
ニクス…!!」

ニクスを先導させ、わたくしは廊下を、スアヴィスとは真逆の方向へ駆け抜けます。
罠廊下は一定の速度を保って走らなければ、壁と床から鉄槍が飛び出して串刺しになる。わたくしはそのぎりぎりの速度で、前へ前へと足を進めました。

「…やってしまった!
とうとうやってしまった!
スアヴィスを傷付けてしまったわ…!」

わたくしが踏んだ床から、鉄槍が飛び出す感覚があります。しかし足元も後ろも確認する余裕はありません。
ただ目の前のニクスの尾だけを見つめて、わたくしはひたすら走ります。
あぁ…未だかつて、こんなに泥臭く走り回る令嬢がいたでしょうか…。

鉄槍の罠が幾重にも重なり、スアヴィスの追跡を阻んだことは幸いでした。
この隙に少しでも先へ。厨房で牛乳を補給して力を取り戻したら、もう後へは引けなくなります。

「…さあ!ラクリマ!」

「は、はい!?」

「わたくしと一緒に!
“ヴァンパイア・ロードを退治”しに行きますわよ!!」

ラクリマと一緒にゲームクリアを目指すしか、わたくしに残された道は無いのです。

…それでも、さっきのスアヴィスの痛みに歪んだ悲しい顔が、わたくしの脳裏に焼きついて離れませんでした。